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【海外の街を歩く】パリの屋台のサンドウィッチ

2011年5月の連休、パリに一週間あまり滞在した。
東日本震災から二ヶ月弱の時期だったこの時期、パリの街角ではほとんど日本人とすれ違うことはなかった。
この時は、パリの街角を直に見て触れて感じることを目的して歩き回ったが、一方で、食事には無頓着な一週間だった。

ホテルと朝食

宿泊したホテルは、ルーブル美術館に程近い、セーヌ川右岸の小じんまりした家庭的なホテルだった。
鍵を受け取る時、部屋番号を英語かフランス語で伝えるのだが、英語だと人によっては聞き返されたりしたので、なるべくフランス語で伝えるようにしていた。
とは言っても、数字を片言で言うレベルだったが…。
部屋のタンスは古びたもので、長いこと使われてきたようだった。

朝食は、ビュッフェ形式で好きなものを自由に取って食べるのだが、コンチネンタルスタイルで、メニューはパンとハム、チーズのみ。
コンチネンタルスタイルは初めてだったので、少々驚いた。
でも、パンにハムとチーズを乗せて食べると美味しく、結構病みつきになった。

コーヒー用に大きなマグカップが用意されていた。
普通はミルクを並々と注いでカフェ・オ・レにするのだろうが、私はカフェ・オ・レを飲まないので、毎日、ブラックコーヒーを並々とマグカップに注いで飲んでいた。多分2、3杯…。

散策と屋台のサンドウィッチ

朝食が終わると早々にホテルを出発し、パリをあちこち散策した。
経路は、旅行者前に入手したガイドブックに載っていた散策コースを参考にして順番に試してパリを歩き回ったので、パリの20区をほぼ一通り歩いたと思う。
たまに、地下鉄を使って移動するのも楽しかった。
多い日は、1日に42,000歩歩いた日もあった。
歩くと頭の中に地図が出来る感覚が楽しかった。

昼食は、屋台のサンドウィッチのセットでいつも済ませていた。
フランスパンのサンドウィッチとケーキ、炭酸飲料の3点セットを売る屋台がパリのあちこちで見かけた。
サンドウィッチの具は、ジャンボン(ハムチーズ)、トン(ツナ)など三種類ぐらいあったように記憶している。

私は、ほぼ毎回ツナを選択していた。
選択するときは、"Thon"と言うこともあったが、フランス語が喋れない気楽さから、平気で指差して「これ」と言っていた。

夕食となると

夕方、ホテルに帰る道すがら、近くのスタバでサンドウィッチを買うか、隣の八百屋で果物を購入するかして、ホテルの部屋で夕食にしていた。
フランスでは2015年に規制が緩和されるまで、キリスト教の安息日にあたる日曜や夜間には、商店の営業が認められてなかった。

当時、パリにコンビニは無かったので、八百屋でよく買物をした。

結局、パリ滞在中、1回、うどん屋に行ってみたぐらいで、ビストロカフェには全く行かなかった。
言葉が喋らない弊害でもある。
メニューを適当に指差せば良かったのだろうが、レストランに入って指差して注文するだけの勇気を残念ながら持ち合わせていなかった。
英会話もあまり得意でなかったので、なおさら…。

パリ滞在中、そんな食生活で通していたので、私にとってのパリの味となるとフランスパンのサンドウィッチになる。

(参考)パリの概要

パリは、パリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。セーヌ川の中州であるシテ島を中心に発達した街。
紀元前3世紀頃からパリシイ族の集落があった。
紀元前1世紀のガリア戦争に敗れてローマ支配下に入っている。ローマ時代の痕跡は、円形劇場・闘技場の遺跡や浴場跡が5区に残っている。

508年にパリは、メロヴィング朝フランク王国の首都となる。
987年にパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙され、パリはフランス王国の首都となった。以後、カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝のフランス王国の首都であったが、1789年7月14日にバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発。
共和政に移行後もナポレオンの登場による第一帝政、第二共和政、第二帝政さらに第三共和政へと、王政ないし帝政と共和政が交錯して政治的には安定しなかったものの、産業革命の到来によりパリは経済的、文化的には繁栄した。

なお、フランスは、第二次世界大戦を経た1946年10月27日、第四共和政憲法が施行され12年続いたが、1958年、アルジェリア独立問題のこじれによるクーデターによりド・ゴールが政権復帰し、新憲法を国民投票で承認させ、10月5日に第五共和政が成立し、現在に至っている。

人口: 216.1万人(2019年時点)
面積: 105.4 km²

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