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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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2023年4月の記事一覧

#31 浮島ヶ原と原宿

宿場として整備される以前の原宿(はらしゅく)は浮島ヶ原(うきしまがはら)と呼ばれ、愛鷹山南麓の沼津市西部から富士市東部にわたって低湿地帯が広がっていた。 愛鷹山系から流れ込む河川の水が集まったことで、浮島沼と呼ばれる沼群が形成されていたのだった。 原宿 原宿は、東海道五十三次の13番目の宿場として設置された宿場で、現在の静岡県沼津市にある。 原宿は規模の小さい宿場であったが、原宿の北側に見える富士山の姿は秀麗で、歌川広重をはじめとして多くの絵師に描かれた景観の地だった。

【歴史小話】貨幣の話(2)

慣用句などで「びた一文まけられない」とかいったかたちで「びた」という言葉を子供の頃からよく耳にしたが、この「びた」が何のことか長いこと知らなかった。 貨幣の歴史を調べていくと「鐚銭(びたせん)」に出くわす。 鐚銭とは粗悪な銭貨のことで、私鋳銭(私的に偽造された銭)だったり、表面が磨滅したりした粗悪な銭をのことを指す。 なぜ、鐚銭が出回るようになったのだろうか? 古代・中世の貨幣鋳造 日本で最初に正式に発行された貨幣は「和同開珎」であり、708年(和銅元年)のことだった。

【歴史小話】徳川秀忠は凡庸な二代目だったのか?

1.秀忠のイメージ(1)凡庸な二代目? 天下を統一して江戸幕府を開いた初代家康と江戸幕府の諸体制を整えた三代目家光との間に挟まれた第二代将軍徳川秀忠は、関ヶ原合戦の遅参などもあって凡庸な二代目というイメージが付きまとう将軍だ。 江戸時代中期に、湯浅常山(1708年ー1781年)が戦国武将の言行をまとめたとされる『常山紀談』では、徳川秀忠の人物評について以下の記載があるそうだ。 「台徳院殿(秀忠)は殊に礼儀正しくおはしまし、苟にも疾言おはしまさず。事なき時は泥塑人のごとく

#30 沼津藩と沼津宿

 沼津は、江戸時代初期には大久保忠佐が治めたが、無嗣断絶による164年間の幕府直轄領の期間を経て、後期は水野家が治めた城下町でもあるとともに、東海道の宿場としても発展した町だ。 三枚橋城と沼津藩  戦国時代、沼津の地には三枚橋城という城があった。武田勝頼が後北条氏に対抗するために築いた城と言われている。 武田氏の滅亡後の1582年(天正10年)には、徳川家康の命により松井忠次が城主となり、家康の関東後の1590年(天正18年)には豊臣秀吉の家臣中村一栄が城主となっている。

【歴史小話】貨幣の話(1)

無文銀銭 最近、高木久史氏の「通貨の日本史」(2016年発行)を読んでいるのだが、同書によると708年(和銅元年)に鋳造されたとされる「和同開珎」以前に日本初の金属通貨があったことが確認されたとある。 その通貨は、無文銀銭(むもんぎんせん)と呼ばれる銀板を打ち延べる方法で造られた、円形で真中に穴がある銀貨だそうだ。 改めてネットで情報を検索してみると、最初の出土例として知られるのは江戸時代中期のことだそうで、これまでに畿内を中心に15以上の遺跡から出土しているのだそうだ。

#29 三嶋明神と三島宿

三嶋明神の門前町 三島は三嶋大社の門前町として古くから栄え、伊豆の中心であった町だ。東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する交通の要衝であった三島は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点でもあった。 三嶋大社は、伊豆半島の基部、三島市中心部に鎮座する。 境内入り口の大鳥居前を東西に東海道、南に下田街道が走る。 周辺は伊豆国の国府があった地。 中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝を始めとする多くの武家からの崇敬を集めたそうだ。 江戸時代の三島は江戸幕府の直