【歴史小話】徳川秀忠は凡庸な二代目だったのか?
1.秀忠のイメージ
(1)凡庸な二代目?
天下を統一して江戸幕府を開いた初代家康と江戸幕府の諸体制を整えた三代目家光との間に挟まれた第二代将軍徳川秀忠は、関ヶ原合戦の遅参などもあって凡庸な二代目というイメージが付きまとう将軍だ。
江戸時代中期に、湯浅常山(1708年ー1781年)が戦国武将の言行をまとめたとされる『常山紀談』では、徳川秀忠の人物評について以下の記載があるそうだ。
「台徳院殿(秀忠)は殊に礼儀正しくおはしまし、苟にも疾言おはしまさず。事なき時は泥塑人のごとくになん」
泥塑人とは泥土で作った人形のことで、礼儀正しく失言もないが無機質でつまらない人ということだろうか?
とは言え、秀忠が本当に凡庸だったら徳川幕府が260年間、15代に渡って続くはずがなく、秀忠が江戸幕府の基盤を作ったからこそ徳川政権が続いたのではないかと考えられる。
(2)二元政治下の秀忠
徳川秀忠の征夷大将軍の在位期間は、1605年(慶長10年)から1623年(元和9年)までの18年間、その後、1632年(寛永9年)に亡くなるまでの9年間は大御所として家康同様、二元政治を推し進めた。
家康存命中の期間中(1605年~1616年)、将軍秀忠の名において制定・公布された法令としては、
①武家諸法度(1615年)
②禁中並公家諸法度(1615年)
③伴天連追放文(1614年)
などがある。これらは、家康が金地院崇伝に命じて起草するなどして進められたと考えられている。。
つまり、家康は、大御所政治の最終盤に幕府統制の方針を作ったと言える。
2.実務家秀忠
秀忠の足跡を確認してみると、実務家の顔が見えてくる。
家康と秀忠による二元政治の時期、家康は伏見・駿府を拠点として朝廷、豊臣家と西国大名に対して睨みを効かせ、秀忠は江戸に拠点を置き江戸の町づくりと東国大名の統制にあたっていたと考えられている。
江戸において天下普請を着実に進め、徳川政権の城下町江戸を作ったのは、実務家秀忠のリーダーシップにあったのではないかと考えられる。
さらに、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなって以降の秀忠は、家康の方針を実直に受け継ぎ、実務家としての能力を発揮して江戸幕府による支配強化を進めている。
(1)大名の改易と再配置
家康氏去の後、謀反の噂が立った弟・忠輝を改易したのを始め、福島正則など有力な外様大名23名を改易し、徳川一門・譜代大名についても16名を改易するなど、政権転覆につながる芽を着実に潰している。
一方で、1619年(元和5年)、弟・頼宣を紀州和歌山藩の藩主に据えるなど大名の再配置にも熱心に取り組み、徳川政権の守りを固めた。
(2)紫衣事件
紫衣事件は、「禁中並公家諸法度」で規定が定められたにも関わらず、後水尾天皇が幕府の了解を得ずに大徳寺などの僧侶に紫衣着用のの勅許を与えたことを問題視し、幕府が勅許を取り消し、抗議した大徳寺の沢庵らを流罪にした事件だ。
この事件を通して、幕府は朝廷と寺社に対する統制を強めた。
(3)キリスト教禁制の強化
1616年(元和2年)に「伴天連宗門御制禁奉書」を発し、下々百姓以下にいたるまでキリスト教を厳禁とするキリスト禁制強化を進めるとともに、外国商船の入港を平戸、長崎の二港に限定し、貿易の統制も推し進めている。
これ以降、キリスト教徒に対する弾圧も進められた。
以上のことからも見えてくるのは実務家だった秀忠の姿であり、秀忠が実直に取り組んだからこそ江戸幕府の土台が揺るがないものなったのではないかと考えられる。
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