【歴史小話】貨幣の話(1)
無文銀銭
最近、高木久史氏の「通貨の日本史」(2016年発行)を読んでいるのだが、同書によると708年(和銅元年)に鋳造されたとされる「和同開珎」以前に日本初の金属通貨があったことが確認されたとある。
その通貨は、無文銀銭(むもんぎんせん)と呼ばれる銀板を打ち延べる方法で造られた、円形で真中に穴がある銀貨だそうだ。
改めてネットで情報を検索してみると、最初の出土例として知られるのは江戸時代中期のことだそうで、これまでに畿内を中心に15以上の遺跡から出土しているのだそうだ。
結構以前から存在が知られた存在だったということで、単に私が無知だったということが分かったが・・・。
遅くとも660年頃には畿内で主に流通したそうだが、近江大津宮時代(667年-672年)頃に発行されたと推定する説もあるそうだ。
畿内近郊では銀は産出されなかったので、畿内に住む当時の人が銀で貨幣を作ったとは考えづらく、「朝鮮半島の新羅から輸入された、との説が有力」だそうだ。
銀は希少性があり単位質量あたりの価値が大きいので、無文銀銭は額面が大きな貨幣で、庶民が日常で使う通貨ではなかったのだろうと推測されている。
計数貨幣と秤量貨幣
貨幣には、個数を数えて用いる計数貨幣(あるいは定額貨幣)と質量を量って用いる秤量貨幣(しょうりょうかへい)がある。
無文銀銭の面白いところは、ものによっては銀片を貼り付けるなどして質量を調節して規格化されているところにある。
無文銀銭の重力は、平均すると10グラム程度であり、質量がほぼ揃った計数貨幣として流通するように造られたということになる。
ところで、秤量貨幣は金属を重さで量って貨幣として使用したことから、金属の価値と貨幣の金額が等しい貨幣という性質を持つことになる。
一方、計数貨幣は金属の価値とは関係なく、信用貨幣としての性質を持つことになる。
江戸時代の日本の貨幣は、金・銀・銭の三貨体制だったが金、銭は計数貨幣であったのに対し、銀は秤量貨幣という特徴を持っていた。
そのため、銀貨は貫(かん)や匁(もんめ)といった重さが単位として使われていた。
秤量貨幣は、少量の塊であれば持ち運び易いなど流通が容易である反面、秤が普及していなければ秤量貨幣は扱いにくいので、貨幣の規格化は、この時代としては合理的な判断だったということになる。
ところで、無文銀銭の信用貨幣としての裏付けは、誰がどうやって行ったのだろうか・・・。
江戸時代の貨幣は、幕府の信頼の下発行される通貨だった。
無文銀銭が流通したのは天智天皇の御代の時代と思われるので、大和朝廷の権威の下、流通したのだと思うが、使用した人びとがどういう階層で流通範囲がどの程度だったのか、どのようなケースで使用されたのかなど色々と気に掛かることが浮かび上がる貨幣だ。
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