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【街と街道を歩く】本町通りと日本橋通り(その1)

本町通りは、徳川家康が江戸最初の町割りしたと言われる本町や伝馬制度を支えた大伝馬町を通る道で、常盤橋から浅草橋までを東西に走る江戸を代表する通りだ。
一方、日本橋通りは、東海道と中山道の起点となった日本橋を中心に南北に走る通りで、東海道の交通量増大にともない江戸中後期にメインストリートとなった通りだ。

12月上旬の土曜日の午後、突然この2本の通りを歩いてみたくなり、本町通りと日本橋通りを歩いてみた。

石垣と北町奉行所

仕事からの帰りがてら、地下鉄大手町駅で降り、出口から外に出ると大きな石垣に遭遇。地下から見る石垣の高さに圧倒される。
位置からすると、道三堀沿いの石垣ということなのだろう。
江戸城の規模感が垣間見え圧倒された。

江戸城の石垣

東京駅の日本橋口まで歩き、小径に入っていき、北町奉行所の案内板を確認。
江戸時代、東京駅の東側に北町奉行所があり、その西隣には松平伊豆守が藩主を勤めた三河吉田藩(現在の豊橋)の上屋敷があったが、今はビルと線路が敷設されており、当日の名残はない。
昔は北町奉行所の前を惣構堀が流れていたが、今は埋め立てられて名残りもなく・・・。
古地図を見ると、北町奉行所は2,630坪余、吉田藩上屋敷は4,000坪とあるが、案内板を現地で見ても規模感は想像できない。

ビル群の隙間にある北町奉行所跡の案内板

常磐橋と金座

呉服橋交差点を渡り、常盤橋に向かう。
常盤橋は、江戸時代、江戸城から町場に出る通りで、江戸最初のメインストリート、本町通りが東に延びていた。現在は、日本銀行の先から本町通りは始まる。
江戸時代は、枡形御門の橋だったが、現在の橋は、1877年(明治10年)に石造アーチ橋で架橋されている。
ややこしいのは、隣に掛かる常磐橋(2021年5月架橋)の位置が、昔の常盤橋の位置にあたるということ。
その事実に後で気付き、写真を撮らず残念!

常盤橋と常磐橋、位置的には・・・

常磐橋の東に立つ日本銀行。江戸時代は、ここに金座が置かれていた。
金座は、1595年(文禄4年)、徳川家康が京都の金匠、後藤庄三郎光次に命じ、江戸で小判を鋳造させたことから始まるという。
後藤家宗家が役目に不正があったとして、1810年(文化7年)に取り潰されたが、分家や旧宗家末裔が後を継ぐかたちで幕末まで金座を管理した。
公式には1868年(慶応4年)4月17日に、官軍に金座、銀座が占領された時に廃止された。
現在の日本銀行本館は、明治29年に完成している。

金座の跡地、現在は日本銀行

本町通り

本町通りは、常盤橋から浅草橋までを東西に走る通りで、奥州街道、日光街道の通りでもあった。
江戸時代は、西から本町一丁目〜四丁目、大伝馬町一丁目~三丁目、小伝馬下町、横山町一丁目〜三丁目と続いた。
大伝馬町三丁目は後に、通旅篭町と通油町に改称、小伝馬下町は通塩町に改称している。
本町には3名の町年寄の役宅を兼ねた拝領屋敷があり、本町一丁目に奈良屋市右衛門宅、本町二丁目に樽屋藤右衛門宅、三町目に喜多村彦右衛門宅があった。
いずれも本町通りに面した角地の屋敷が拝領されていたという。

町年寄は、町奉行の配下に置かれた町役人で、江戸市中の200名以上の町名主を支配し、奉行所のお触れ・指令の伝達、町内の収税、町名主の監督など多岐に渡る業務にあたっていたという。
三家は代々世襲で町年寄を勤めた。

現代の本町通り

本町には、江戸時代、呉服屋や薬種問屋をはじめとした色々な種類の商店が多く集まった。
現在の本町通りは、一車線の通りだ。昔の一丁目には日本銀行、二丁目には商業施設が建ち並んでいるが、三丁目、四丁目には製薬企業や繊維企業などのビルが立っている。
土曜の午後は人通りも少なく閑散としていた。
商業施設が立ち並ぶ日本橋通りの混雑ぶりとは違った趣きを感じさせる。

本町薬問屋発祥の町碑


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