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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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2023年1月の記事一覧

#18 なぜ街道沿いに刑場が置かれたのか?

見せしめの場  江戸時代、江戸周辺には南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、北に奥州街道・日光街道沿いの小塚原刑場(東京都荒川区南千住2丁目)、西に甲州街道沿いの大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場といわれた。  幕末には、中山道沿いに一時的に板橋刑場(北区滝野川のJR板橋駅北付近)が置かれ近藤勇などが処刑されたが、板橋刑場は新政府軍がたまたま処刑に使った場所で、正式な刑場ではなかったようだ。  江戸時代の刑場は、江戸に入る人たち、特

#17 なぜ品川が宿場町として栄えたのか?

品川と品川湊  品川は目黒川の河口付近に出来た湊町で、平安時代末期の文献に登場する。武蔵国国府と品川とは品川道と呼ばれる武蔵国南部の古道が通っていた。品川湊は、武蔵国国府の外港だったという説もある。  品川湊のあった湾は遠浅で、品川湊の沖合い(現在の東京港品川埠頭から天王洲に掛けての一帯)には、江戸に物資を運んできた大型廻船が停泊し、瀬取船などの小型廻船と荷物の積み替えが行われる場所だった。  品川沖で江戸向けの積み替えが行われた理由は、品川以北の江戸湾は浅瀬が広がって

#16 なぜ旅立ちは「お江戸日本橋七ツ立ち」だったのか?

江戸時代の時刻制度は不定時法  江戸時代の日本では、不定時法と呼ばれる時刻制度が使われていた。不定時法では1日を昼と夜に分けてそれぞれを6等分にし、その一つの長さを1刻(いっとき)と呼んでいた。  平安時代の延喜式では、子と午の刻(12時)には九つ、丑と未の刻(2時)には八つ、寅と申の刻(4時)には七つ、卯と酉の刻(6時)には六つ、辰と戌の刻(8時)には五つ、巳と亥の刻(10時)には四つ太鼓を鳴らすと決められていたそうだ。  ところで、時刻の基準となる明け六つと暮れ六つは

#15 なぜ日本橋周辺に河岸が集まったのか

日本橋界隈と舟運  陸運と舟運の要衝である日本橋及び周辺の河岸は、物資が集まる物流の集積地であり、人の往来で賑わったという。  歌川広重の「江戸名所四十八景  日本橋魚市」などの浮世絵でも日本橋川沿いの魚河岸の賑わいと日本橋を渡る人の多さが描かれている。  日本橋から江戸橋にかけての北岸には魚河岸があり、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚の荷揚げが活発に行われた。  魚河岸の始まりは、1610年(慶長15年)頃、摂州西成郡佃村から移り住んだ森孫右衛門の次男九左衛門が、

#14なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?(その2) 

幕府の金銀山の統轄と交通網整備  金山、銀山といった鉱物を産出する山は、為政者から重要視されてきた場所だ。  幕府を開いた家康は、佐渡、土肥(伊豆)、石見、生野(但馬)、足尾などの鉱山資源地の支配力を強化するために、関ヶ原以降、直轄地として管理を開始した。  佐渡金山は、1601年(慶長6年)に徳川の直轄地として組み込まれ、大久保長安が送り込まれた。同年、北山で金脈が発見されたことで、佐渡金山は江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。17世紀前半は多く産出されたとい

#13 なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?(その1)

なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?  徳川秀忠は家康の命のもと、1604年(慶長9年)から東海道と東山道の一里塚整備に着手しているが、このとき、北陸道の一里塚も整備を開始している。奉行には山本重威と米田正勝をあたらせ、築造を進めたとある。  ところで、東海道と東山道に加え、なぜ北陸道の一里塚の整備も行ったのだろうか?  北陸道は、新潟県上越市の高田から滋賀県彦根市の中山道の鳥居本宿までを結ぶ街道で約400kmの距離を有する街道だ。  1604年時点の情勢を考えると、  

#12 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その4)

江戸幕府の大坂統治の意味  松平忠明の4年に渡る大坂町場の復興を経て、1619年(元和5年)、幕府は大坂を直轄地とし、大坂城代と東西の大坂町奉行所を設置している。  大坂を直轄地とした目的は、  ①西国諸大名の監視と軍事拠点化  ②国内最大の商業都市支配 ということだろう。  大坂の陣が終わり、豊臣はが終焉を迎えたとはいえ、薩摩、長州、土佐、肥前など西国に置いた外様大名に対する警戒は必要であることから大坂から監視を行うとともに、西国有事に備えた幕府の軍事拠点として大坂城を活

#11 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その3)

家康の伏見街づくり  1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が伏見城で死去して以降、遺言により1599年(慶長4年)正月豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって家康が木幡山城に入り政務をとるようになるが、この時期、家康は情勢の変化に合わせ、伏見城と大坂城を巧みに利用した動きを取っている。  1599年(慶長4年)9月には家康も大阪城西の丸に入り、途中関ヶ原の戦いを挟み、1601年(慶長6年)3月まで大坂で政務を執って主導権の確保に努めている。  この時期伏見は、多くの大

#10 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その2)

秀吉が整備した城下町  1583年(天正11年)から始まる秀吉の大阪の城下町作りは、上町台地上が中心となり、谷町筋以東の上町・玉造一帯と南の平野町一帯が中心であったと推測されている。城から南に通りが延び、奥行き20間、竪型の町割りが行われたみられている。  東横堀川を開削して惣構の城となるが、東横堀川の開削時期については、1585年(天正13年)説と1594年(文禄3年)説がある。  1598年(慶長3年)になると、秀吉は大坂城と城下町の改修に着手している。この時期、伏見に