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#12 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その4)

江戸幕府の大坂統治の意味

 松平忠明の4年に渡る大坂町場の復興を経て、1619年(元和5年)、幕府は大坂を直轄地とし、大坂城代と東西の大坂町奉行所を設置している。
 大坂を直轄地とした目的は、
 ①西国諸大名の監視と軍事拠点化
 ②国内最大の商業都市支配
ということだろう。
 大坂の陣が終わり、豊臣はが終焉を迎えたとはいえ、薩摩、長州、土佐、肥前など西国に置いた外様大名に対する警戒は必要であることから大坂から監視を行うとともに、西国有事に備えた幕府の軍事拠点として大坂城を活用した。大坂城代には有力な譜代大名が配置されたことが重要性を示している。 
 東海道を大坂まで延長したことも、西国有事発生時に迅速に対応するための軍用道路の整備であったと考えられる。
 また、商業都市大坂に集まる富を取り込むことも必要であることから東西町奉行所や街道、水路の整備も併せた行うことが必要だったということだ。
 1619年(元和5年)、京都と大坂を結んでいた京街道を東海道に直結させ、街道沿いの伏見、淀、枚方、守口に宿場に設置したことは、江戸幕府の軍事面、経済面への対応の一環として進められたものと言えよう。

なぜ起点を京橋から高麗橋に変えたのか?

 東海道を大坂まで延長した際に、なぜ起点を高麗橋としたのか理由は分らない。高麗橋が掛かる場所は、元々城の西惣構堀にあたり、城域と町を結ぶ重要な橋であった。また、高麗橋の名の由来は、秀吉の時代、高麗からの使節がが通った道とも、近辺に使節を迎える施設があったためとも伝えられている。
 一つ言えるのは、徳川政権による大坂町場の復興により、大坂城下は船場を中心とする商業都市となったということだ。高麗橋は、城域と町を結ぶ重要な橋であるとともに、商業都市大坂の玄関口としてのランドマークとして使われたのではないかと考えている。

現在の船場

大坂の刑場

 江戸時代の都市周辺の街道沿いには、刑場はつきものであることは前にも言及した。大坂にも刑場はいくつかあるようだが、東海道沿いとなると、「野江刑場」が挙げられる。
 野江刑場は、高麗橋から約一里程の東成郡野江村(現在の都島区中通り三丁目辺り)の東海道沿いにあったという。
 刑場となったのは大坂夏の陣の後と言い、豊臣方の残党を処刑したのが始まりで、明治初年頃まで刑場として使われたようだ。

その後の伏見

 伏見城は関ケ原以降、西国監視の拠点と位置付けられ、家康が1607年(慶長12年)に駿府に移って以降も伏見城代が置かれるなどして西の拠点として機能した。
 1614年(慶長19年)の大阪冬の陣の際は徳川軍の大本営になったという。
 1619年(元和5年)、徳川幕府の大坂直轄化にともない、伏見城は廃城となり城代の内藤信正は大坂城代に転籍した。
 以後、幕府直轄領の伏見には奉行所が置かれるようになったが、遠国奉行のうち唯一大名が充てられたという。それだけ、伏見は重要な位置に有り続けた町と言えよう。

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