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#11 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その3)

家康の伏見街づくり

 1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が伏見城で死去して以降、遺言により1599年(慶長4年)正月豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって家康が木幡山城に入り政務をとるようになるが、この時期、家康は情勢の変化に合わせ、伏見城と大坂城を巧みに利用した動きを取っている。

 1599年(慶長4年)9月には家康も大阪城西の丸に入り、途中関ヶ原の戦いを挟み、1601年(慶長6年)3月まで大坂で政務を執って主導権の確保に努めている。
 この時期伏見は、多くの大名屋敷が大坂に移ってしまい、伏見城下は荒廃としたといい、島津義弘の書状には「諸大名悉く大坂へ家居以下引越され候、伏見の儀は荒野に罷り成る可き躰に候」と記されているという。

 関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた1601年(慶長6年)3月になると、家康は大坂から伏見に移り、関ヶ原の戦いの前哨戦「伏見城の戦い」で落城した伏見城の再建に着手している。
 この時期は、豊臣家とは距離を取り、権力掌握に向けた動きをみせていた時期であり、徳川の西国対策の拠点として伏見城を押さえる作戦に出たのだと思われる。
 1602年(慶長7年)12月には伏見城の再建はほぼ完了し、家康は伏見城に帰城。このころより大坂城に移っていた大名屋敷も伏見城下に戻ってきたという。

 家康は、1603年(慶長8年)2月、伏見城にて征夷大将軍の宣旨を受けている。1605年(慶長10年)4月に秀忠に征夷大将軍を譲った後も家康は1606年(慶長11年)まで伏見で政務を取った。
 この間、家康は、1601年(慶長6年)5月に伏見の両替町に初めての銀座を設置(1601年5月)し、堺より大黒屋常是を招いて鋳造に当たらせ、全国統一通貨として広範な流通を図った。
 1604年(慶長9年)12月には宇治川派流域の伏見浜に荷揚げ場としての伏見伝馬所を設置するなどして、伏見を京都と大坂の中継拠点として整備している。

大坂の復興

 ロドリゴ・デ・ビベロが伝える1609年(慶長14年)頃の江戸の人口は15万人程度であったという。その頃の大坂の人口は20万人。1614年(慶長19年)から始まる大坂の陣により、大阪の町は灰儘と化した。
 戦後、復興を奥平信正昌の四男、家康の外孫である松平忠明が、この町の復興を推し進めた。忠明が大坂城主として在任した1615年(慶長20年)から1619年(元和5年)の4年。道頓堀川、京町堀川、江戸堀川の掘削事業は安井九兵衛や平野藤次郎が担った。町場の拡大整備や、伏見町人の大坂移住も進められた。
 半世紀後には38万人の人口を抱える都市になる大坂の基盤は、この時期から始まったということだ。

 忠明が大阪城主を退いた1619年(元和五年)以降、徳川幕府による大阪城の大規模改修工事も行われるようになる。石垣櫓を含む工事普請には、関西の諸大名が駆り出され、本丸と二の丸、三の丸の一部工事が家光の時代の1628年(寛永5年)頃まで行われたいう。

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