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#10 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その2)

秀吉が整備した城下町

 1583年(天正11年)から始まる秀吉の大阪の城下町作りは、上町台地上が中心となり、谷町筋以東の上町・玉造一帯と南の平野町一帯が中心であったと推測されている。城から南に通りが延び、奥行き20間、竪型の町割りが行われたみられている。
 東横堀川を開削して惣構の城となるが、東横堀川の開削時期については、1585年(天正13年)説と1594年(文禄3年)説がある。
 1598年(慶長3年)になると、秀吉は大坂城と城下町の改修に着手している。この時期、伏見に集中していた大名屋敷を大坂に移すため、東横堀川能日に船場地区を開発して上町の住民を移し、跡地に三ノ丸を築いている。
 この時の移転が船場が大坂商人の中心となる契機となる。
 この慶長3年の大坂城の改修と大坂の町場を再整備したところで、秀吉は亡くなった。

 一方、伏見の城下町造りは、1593年(文禄2年)末から町割が始まっている。隠居屋敷だった時点の指月城の城下町は、隠居屋敷とその周辺に広がる武家屋敷、巨椋池畔の伏見湊付近の町人地で構成される小規模な町人地であったと想定されている。 これが、1594年(文禄3年)以降の秀吉の本城化により、武家地は指月城郭の北に築かれるようになったというが、1595年(文禄4年)7月に発生した豊臣秀次切腹により聚楽第が破却になったことで、聚楽第城下の大名屋敷と一部の町屋は伏見城下に移転したことで城下町の拡大が進んだと思われる。

 こういった経緯で伏見城下は整備が進んだのであるが、1596年(文禄5年)の慶長伏見地震の発生により城の位置を北東の木幡山に移ったことにより、大名屋敷から城への登城道は南北から東西に90度方向転換することになった。
 伏見城下が横町になった背景には、城の位置が城下の南から東に変わったことが影響している。

物流網と拠点の整備

 秀吉は、城や城下町の整備以外にも、治水事業や街道整備も精力的に取り組んでいる。
 淀川の氾濫対策として淀川左岸に「文禄堤」の整備を毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に命じ、1594年(文禄3年)から整備を開始している。1596年(慶長元年)に完成したこの堤には街道が通され、大阪城の京橋口と伏見城下を繋ぐ街道となる。この街道が後に京街道と呼ばれるようになる。

 また、巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川の流れを分離して太閤堤を築いて堤の上に大和街道を通すとともに、宇治川沿いに伏見湊を開き、舟運の拠点を作ったことで、伏見と大坂、京都、奈良とを繋ぐ水陸の交通路の整備を行っている。
 こうした整備事業を通して、伏見城下にヒト・モノ・カネが集まる仕組みを作り、伏見繁栄の礎を作ったのは秀吉の功績だ。


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