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#9 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その1)

街道延長の意図は?

 東海道の整備を開始した1601年(慶長6年)時点の西の起点は三条大橋だったが、1619年(元和5年)になると江戸幕府は街道を大坂まで延長し、起点を高麗橋に置いている。
 時代背景で言えば、1619年は大坂夏の陣から4年経ち、江戸幕府が大坂を幕府直轄地として支配を開始し、大坂城代及び大坂町奉行を設置した年である。

 東海道を大坂まで延長した際に追加された宿場は、伏見、淀、枚方、守口の四宿だ。山科追分で分岐して大坂に向かうルートになる。
 この東海道延長の目的は何だったのだろうか?

 ところで、この東海道の延長の中で注目すべき都市が二つある。
 一つは、言うまでもなく大坂であるが、もう一つは伏見である。
 伏見は、江戸時代、東西に1km、南北に4.6kmの広さを誇り、人口は3万人を数え、本陣4軒、脇本陣2軒、旅籠39軒を要する大宿場町だった。
 また、宇治川沿いに伏見湊を擁し、京都・大坂間の物流の中継拠点として機能した都市でもある。
 この物流都市「伏見」と大商業都市「大坂」は、誰が、どのようにして形作ったのだろうか?

秀吉が造った大坂と伏見の城

  大坂と伏見はともに秀吉の居城造りから始まっているが、2つの城の築城の目的は少し違っている。

 上山台地にあった石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築いたのは、1583年(天正11年)のことだ。秀吉による大坂城普請は四段階に渡って実施されている。
 1583年(天正11年)~1585年(天正13年)に掛けて本丸を整備、1586年(天正14年)~1588年(天正16年)に掛けて二ノ丸を整備、1594年(文禄3年)~1596年(文禄5年)に掛けて三ノ丸と惣構を整備、1598年(慶長3年)に馬出曲輪と大名屋敷を整備して完成をみている。

 一方、秀吉が築いた伏見城は、秀吉が「隠居後の住まい」とするために1592年(文禄元年)8月から築かれた城であるが、1596年(文禄5年)閏7月に発生した慶長伏見地震による天守倒壊もあって、最初に築城した城「指月城(しげつじょう)」と発生直後に築城を開始した城「木幡山城(こはたやまじょう)」の2城が存在する。
 指月城は桃山丘陵の麓に位置したが、木幡山城は指月城から北東1km先の桃山丘陵の高台に位置する。

 「指月城」は、当初は隠居屋敷として建設を始めたとみられ、1593年(文禄2年)9月には概ね完成したようで、茶会などに用いられるなどしたようだ。
 しかし、1593年(文禄2年)8月に秀頼が産まれたことで、秀吉は、秀頼に大坂城を与えることを想定し、伏見の隠居屋敷を秀吉の本城に造り変えることにする。1594年(文禄3年)から本格的な築城が始まった。淀古城や聚楽第から建物が移築されるなどして、城郭の整備が進められている。
 また、1594年(文禄3年)末からは城下町の整備も開始され、大名屋敷などの整備も進められた。

 ところが、1596年(文禄5年)閏7月13日子の刻に発生した慶長伏見地震により、天守の上二層が倒壊するなど損害が大きかったことから、地震発生から二日後の同年閏7月15日から「木幡山城」の建築が着手されたという。
 木幡山城は、1597年(慶長2年)に完成したとされており、曲輪もめぐらした大きな城だったようだ。
 秀吉は、1598年(慶長3年)8月18日にこの木幡山城で没している。

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