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#8 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その3)

大仏橋から五条大橋へ

 三条大橋は、室町時代に架橋されたというが、1589年(天正17年)に秀吉が増田長盛に命じて石柱の橋として修復・架橋している。この時の橋の規模は長さ126m、幅7.5mあったという。
 一方、五条大橋は1590年(天正18年)に秀忠の方広寺大仏への参詣の便を図るために六条坊門小路を整備した際に架橋された橋である。架橋された頃は大仏橋と呼ばれていたようだ。五条橋と呼ばれるようになったのは、元和年間(1615年〜1624年)に新たに架橋されたタイミングだったそうで、六条坊門小路を五条橋通に改称したのも、この架橋のタイミングだったようだ。

 秀吉が築いた御土居には七カ所の出入り口が設けられたが、三条大橋から入る口には粟田口が設けられ、五条大橋(大仏橋)から入る口には伏見口が設けられた。どちらの橋も東から京都に入る玄関口として整備されていたということになる。

 二本の橋の大きな違いは、五条大橋(大仏橋)は伏見や方広寺へのアクセスを良くするために後に五条通と呼ばれるようになる六条坊門小路と併せて整備した橋であり、いわば秀吉のために造られた橋と言えるのではないか。
 そのために家康は、民衆に秀吉を想起させる「秀吉の橋」を起点に選択することは出来ず、秀吉の印象の薄い三条大橋を起点として選択したのではないかと考えている。

現代の三条大橋

刑場との関係

 もう一つのポイントとして、刑場との関係が挙げられる。
 江戸時代、江戸周辺の刑場は主要街道沿いに存在した。鈴ヶ森刑場は東海道、日光街道・奥州街道沿いの小塚原刑場、幕末の板橋刑場は中山道沿いにあった。
 江戸時代の刑場は刑罰に対する見せしめの場であり、町外れの往来の多い道に処刑者を晒すことで事件の抑止を図っていた。

 鎌倉時代でも見せしめとしての刑場は存在したといい、藤沢の龍ノ口、鎌倉の葛原岡などが刑場として利用されてきたとされる。いずれも人通りのある地、人目のつく位置に

 京都には粟田口刑場が三条通の九条山付近西側にあった。江戸時代より前から刑場として機能していたとされ、約15,000人あまりが処刑されたというが、東海道沿いの刑場であった。
 刑場沿いの街道であることも、東海道の経路設定時に考慮されたのではないかと考えている。

有名人の処刑地は

 ところで、公家や武士ともなると古来から使われた刑場は鴨川の河原だった。
 保元の乱の源為義、平忠正、平治の乱の源義平、藤原信頼、源平合戦の平能宗、藤原忠清、山崎の戦いの斎藤利三、関ヶ原の戦いの石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、大坂の陣の長宗我部盛親や豊臣方の残党などの公家・武士の処刑は六条河原で行われていた。

 一方、三条河原での処刑では、石川五右衛門と一族郎党が1594年(文禄3年)に処刑されたのを皮切りに、1595年(文禄4年)には、豊臣秀次の妻子と侍女、乳母39名が処刑されている。
 石田三成と小西行長は、六条河原で処刑後に三条大橋のたもとで首を晒されている。
 16世紀末から16世紀初頭の秀吉から家康に治世が切り替わる時期に、三条河原と三条大橋はみせしめの場所として積極的に活用されている。
 この辺りも三条大橋を西の起点としたことに大いに関係していると思われる。

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