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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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2022年12月の記事一覧

#9 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その1)

街道延長の意図は?  東海道の整備を開始した1601年(慶長6年)時点の西の起点は三条大橋だったが、1619年(元和5年)になると江戸幕府は街道を大坂まで延長し、起点を高麗橋に置いている。  時代背景で言えば、1619年は大坂夏の陣から4年経ち、江戸幕府が大坂を幕府直轄地として支配を開始し、大坂城代及び大坂町奉行を設置した年である。  東海道を大坂まで延長した際に追加された宿場は、伏見、淀、枚方、守口の四宿だ。山科追分で分岐して大坂に向かうルートになる。  この東海道延長

#8 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その3)

大仏橋から五条大橋へ  三条大橋は、室町時代に架橋されたというが、1589年(天正17年)に秀吉が増田長盛に命じて石柱の橋として修復・架橋している。この時の橋の規模は長さ126m、幅7.5mあったという。  一方、五条大橋は1590年(天正18年)に秀忠の方広寺大仏への参詣の便を図るために六条坊門小路を整備した際に架橋された橋である。架橋された頃は大仏橋と呼ばれていたようだ。五条橋と呼ばれるようになったのは、元和年間(1615年〜1624年)に新たに架橋されたタイミングだっ

#7 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その2)

御土居の中の都市  京都を取り囲んだ御土居は、1591年(天正19年)に造られた。南北が約8.5km、東西が約3.5kmの縦長の形をしており、全長は約22.5kmの長さを誇った。  北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区の東寺の南の九条通、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区の山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川、北西部では紙屋川に沿っており、これらの川が堀の役割を果たしていた。  一度、北区鷹峯に残る御土居周辺を歩いてみたことがあるが、規模の大きさに驚かさ

#6 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その1)

五条に通じる道  東海道の京の起点は三条大橋だが、なぜ三条大橋が選ばれたのだろうか?   中世までの街道の整備状況を考えると五条大橋を選ぶという選択肢もあったと思われるが、敢えて三条大橋を選択したのはなぜだろう?  東国から平安京に至る古くからの街道である渋谷街道(しぶたにかいどう)は、五条から大津へ抜ける最短の間道として、平安時代から中世に掛けて軍事的に重要だったという。  渋谷街道の起点付近の六波羅には、平安時代後期に伊勢平氏が邸宅を構えて拠点となり、伊勢平氏の繁栄

#5 なぜ日本橋が起点になったのか?(その4)

なぜ一里塚を作ったのか?  一里塚の期限は古代中国にあるというが、日本では平安時代末期頃に奥州藤原氏が白河の関~陸奥湾までの間に里程標を立てたのが最初と言われている。戦国時代では、織田信長や豊臣秀吉が立てた塚があるという。  徳川幕府の一里塚の整備は、1604年(慶長9年)、家康が二代将軍秀忠に命じ、日本橋を起点として、東海・東山・北陸の3街道に1里(3,927km)ごとに5間(約9m)四方の塚を築かせ、塚の上には、榎や松、欅を植え、旅行者に便宜を与えたという。  榎、

#4 なぜ日本橋が起点になったのか?(その3)

いつ架橋されたのか?  日本橋の架橋時期については、実は公式な記録が残ってなく、はっきりとしたことは分かっていないが、日本橋が最初に架けられたのは1603年(慶長8年)だとする説が一般的だ。  翌年の1604年(慶長9年)、幕府が日本橋を起点にして各街道に一里塚を築かせたことに関して、三浦浄心が寛永年間(1624年~1644年)後期に執筆した「見聞集」で以下を記載している。 「当君の御時代に、一里塚をつくべきよし仰出されたり。されば日本橋は慶長八癸卯の年江戸町わりの時節、

#3 なぜ日本橋が起点になったのか?(その2)

最初の起点は元芝  東海道の起点といえば日本橋だが、日本橋が起点となったのは1604年(慶長9年)のこと。同年2月4日、徳川秀忠は家康の命を受け、東海道、東山道、北陸道に一里塚を整備させたという記事が「徳川実記」に記録されている。それ以前の東海道の起点は元芝だったという。金杉橋の南側の本芝一丁目(現在の芝四丁目)あたりと言われている。  なぜ、元芝が東海道の起点だったのだろうか?  「別本慶長江戸図」を使って推論してみた。  「別本慶長江戸図」は1602年(慶長9年)頃の

#2 なぜ日本橋が起点になったのか?(その1)

家康が入府した頃の江戸  銀座や日本橋を通る中央通りは、東京を代表する商業地を通る道路だ。港区新橋一丁目の新橋交差点を起点として、終点は台東区上野六丁目の上野駅交差点までの経路となっている。  江戸時代、この中央通りの日本橋から南は東海道、日本橋から北の須田町交差点の手前までは中山道だった。この区間は江戸時代も東海道と中山道という基幹道路だったわけで、特に日本橋周辺はメインの商業地だった。  しかし、最初から江戸のメインストリートだったかというと違ったようだ。  家康が入