#7 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その2)
御土居の中の都市
京都を取り囲んだ御土居は、1591年(天正19年)に造られた。南北が約8.5km、東西が約3.5kmの縦長の形をしており、全長は約22.5kmの長さを誇った。
北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区の東寺の南の九条通、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区の山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川、北西部では紙屋川に沿っており、これらの川が堀の役割を果たしていた。
一度、北区鷹峯に残る御土居周辺を歩いてみたことがあるが、規模の大きさに驚かされた記憶が残っている。
御土居の構築以降、御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼ぶようになった。
御土居構築の主目的は洛中の範囲をはっきりさせるとともに、
・外敵の来襲に備える防塁
・鴨川の氾濫から市街を守る堤防
という役割も求めた。
ところで、御土居の大きさを小田原城や江戸城の惣構(外堀)と比較すると、小田原城9km、江戸城15.7kmと両城を凌駕する規模を誇った。
御土居には出入口として、長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、東寺口、丹波口など「京の七口」(『三藐院記』では十口)が造られた。
このうち、粟田口の東に三条大橋が架かり、伏見口の東に五条大橋が架かっていた。
なぜ二条に京都支配の拠点を置いたのか?
1601年(慶長6年)5月、家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決定して町屋を立ち退かせ、二条城の整備を始めた。造営総奉行には、京都町奉行(後の京都所司代)板倉勝重、大工棟梁には中井正清を配置した。
この二条城を中心にして、北に京都所司代、南に東町奉行所と西町奉行所が置かれるなど、二条は徳川政権の京都支配の中心となった。
京都所司代の東には金座と銀座も置かれ、北には、小伝馬町という地名も見られることから、伝馬制度を担う役割も二条に置いたと思われる。
ところで、家康はなぜ二条に京都支配の拠点を置いたのだろうか?
家康の愛読書は吾妻鏡だったと言われている。ならば、関ヶ原以降、家康が活動拠点とした伏見城や江戸・東国との交通の利便性を考えて、六波羅に拠点を作っても良かったのではと考えられる。
六波羅ではなく二条に徳川政権の拠点を置いたのは、御土居の存在が影響していると考えられる。秀吉が、御土居を造ったことで、御土居の内側は洛中となった。京都を支配する上では、洛外である六波羅では駄目で、洛中に権威の象徴を置くことは必須だったのだろう。
また、御土居という要塞に守られた城塞都市の内側に拠点を置くことは、防御機能を作る手間が一つ省けたことにもなったのだと思う。
それでは、洛中の中でも敢えて二条を選んだ理由は何だったのだろうか?
聚楽第があった当時の家康の屋敷は、下売立通の智恵光院付近の南側にあったと推測されており、二条城の直ぐ北側の位置にある。単純な話は、元々屋敷を置いた場所を中心に徳川政権の支配拠点を置いたということかもしれない。
また、二条城周辺の土地は、聚楽第周辺の武家地と町人地があったようで、秀吉による聚楽第の破却後、聚楽第城下に屋敷を構えていた大名は伏見に移り、町人地の住民も伏見に移り住んだことから、徳川政権が新たに京都支配の拠点を整備し易い土地になっていたのではとも考えられる。
別の観点としては、応仁の乱後の京都は、公家が住んだ上京や八坂神社の氏子衆が住んだ下京など以前から住む京都の住人は上京と下京を中心に住んでいたことから、両地域を統制する位置として、中京である二条に拠点を置いたのではないかと考えている。
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