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痛みは相対的である

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Pain is relative (痛みは相対的である)

一本の矢で致命傷となっている子供の狼。それを無数の矢を背負いながら心配する大人の狼。思うところの多いイラスト。

「痛覚」は傷を負った患部を自覚・把握する為の重要な機能。痛覚があるから体が反射して危険から逃げる、逆にランナーズハイのように体の負荷に対しエンドルフィン放出で痛みを緩和したり。つまるところ「自己防衛システム」の一環なんですよね。

このイラストを見たときに、上記の「肉体的な痛み」の方ではなく、「精神的痛み」の方の個体差について考えさせられたわけです。

それは、この狼のイラストの前に、こちらを先に見たからです。

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このイラストのネタ元が狼のやつなわけです。

超絶わかりやすい。

この絵を見た感想は人それぞれでしょう。

「矢一本ぐらいでビービー騒いんでじゃねぇ!腹立つわ!お前を気遣ってる友達の矢の本数わかってんのか?」と思う人もいるかもしれません(昔の自分はそういう感想だったかもしれません)

「矢一本でちゃんとアラートが出せているこの子は結果幸せで、無数の矢が刺さっているのにアラートが出せない彼女の方が結果気の毒で不幸だ。」と思う人もいるかもしれません。

「肉体的な痛み」は最終的には「死に至る」という絶対値がありますが、「精神的な痛み」は個人差のレンジがとんでもなく広いような気がします。
例えば、人間の「走力」の個体差は100m10秒〜60秒だとすると、たかが6倍ですが、「嗅覚」は1の人がいれば1,000の人がいるわけで。それぐらいの大きな差が「精神的な痛み」の感受性にあるような気がします。

痛みに強い人は、それを「能力が高い」に勘違いした「奢り」に陥りやすいと思います。単に慣れて鈍感になってるだけじゃない?と自己を疑う謙虚さも必要。また、マズイ所にマズイ刺さり方になっている矢を見逃して、意図しない大ダメージを受けるリスクにも注意です。

痛みに弱い(敏感な)人は、それに卑屈にならず、その特性を孕んだ上で、どうやりくりするかを工夫するのだと思います。
何でもかんでも真正面からガップリ四つに組むことだけが正義ではなく、時にはエスケープするのもアリ(それ自体が痛みに強くないと選択できない場合もあります...)。
ただ、「弱い」ことを器用に振る舞い、弱者保護の仕組みを強者権力のごとく半笑いで振りかざしてくる輩が稀にいます。工夫の結果の常套手段なのかもしれませんが、個人的には「そういうヤツはロクな死に方しねぇ」と呪いをかけてます(まだ魂が若いです>自分)。

人生では大なり小なり「矢の雨」が降る時があります。その痛みとどう向き合っているかが、人格の根幹となるのは間違いないと思います。

敬愛する大先輩は「人間の魅力・セクシーさは、過去どれだけ酷い目に遭ってきたかに比例するのだよ」と仰っていました。
達人の真意を汲み取るにはまだ至らない修行の身ですが、この刺さった矢の話は、大いに関係があるような気がします。

引き続き新規の矢を恐れず受け、致命傷には気をつけながら、他の人の矢の刺さり具合も忖度できる大人になれるよう精進しやす。

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