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正義と怒りの名の下に

Twitterを見ていることができなくなったのは、震災の後だ。東日本大震災直後、Twitterは生存確認、ニュースよりも早い情報、地震速報などを確認するのになくてはならない、ライフラインそのものになった。素晴らしいツールだと皆が称賛した。

その後、様子が変化する。人々は団結した。団結して、その時々のトピック、例えば政治家の不正や、海外での出来事、環境汚染、芸術祭の問題、プライバシーの問題、マイノリティの問題、事件、事故。さまざまな『敵』に、『正義』の名の下に立ち向かっていった。

ぼくはそこにいられなくなった。もうそこには不条理への『怒り』と、『正義』しか存在しなくなっていた。不条理や無意味が存在する余白がない。人々が団結する喜びは、怒り、正義、そして敵によって担保された。自分から遠い世界の不条理にも人々は怒り、団結した。

団結の欲望とでも呼ぼうか。特にこの国は団結の欲望が強いとぼくは思う。それは長所にも短所にもなり得るだろう。問題なのは、団結の欲望に伴った目的遂行の欲望が弱いということだ。社会的弱者を救う団結も、福島の風評被害から救う団結も、芸術の権利を主張する団結も、明治政府に反旗を翻す武士の団結も、国のために戦地に赴く団結も、そこには目的遂行の欲望よりも団結の欲望が優っている様子が見て取れる。

空洞化した団結には、外圧が生まれる。団結しないものを悪とする空気、団結している自分『達』を正義とする空気。団結することこそが美しいとする空気が生まれる。

このパンデミックのなか、不安になった人々が求めるものは団結だ。それはもちろん否定すべきことではない。ぼくだって毎日不安な気持ちがある。だけど、そんなときに『怒り』と『正義』を理由にすぐに団結するのはもうやめにしないか。団結の欲望が満たされたら、どうせすぐにみんな忘れてしまう。福島原発のこと、麻原彰晃のこと、性の喜びおじさんのこと、京アニ事件のこと。オーストラリアの火災のこと。みんな忘れてしまう。

みんなコロナで不安で疲れてしまったよな。だけど、ひとはそんなにたくさんのことを一瞬で勉強できない。人種差別、環境問題、領土問題、表現の問題、地方と都市の問題、男女格差、宗教、全て学び始めれば奥深く、最終的には全てがつながる。ムーヴが起こったそのときにその全てを理解することは不可能だ。僕は団結の欲望に身を任せて圧力の一因になってしまうことは避けることにする。

ぼくは1人で学び考えることにする。自分にとって大切な問題から学び、そして忘れないことにする。


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