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ゲーム日記1・スクエニ編(FF7R,FF9,マリオRPG) -RPGをやりきれるようになったゾ-

最近やっと、RPGを最後までできるようになった。というかゲームを、最後までできるようになった。最後までできるゲームとどうしてもできなそうなゲームを見分けられるようになった。難しすぎるゲームや怖すぎるゲーム、コツコツしすぎているゲームは無理してもできない。できないゲームは買わなければ良いので、自分にとって楽しいゲームを集めたい今日この頃。以下感想。


FF7R(2020)-バーチャルリアリティの中のバーチャルリアリティ-

途中までやったところで引っ越しがあり、しばらく放置していたけど、なんと最後まで遊ぶことができた。大きなゲーム用モニターとソファを買って、くつろげる部屋を作ったおかげかもしれないし、仕事柄ゲームをもっと知らなければ、という強迫観念のせいかもしれない。

ゲームを遊んでいるときによく思うことは、他のゲームのことだ。遊んでいるゲームのシーンから、別のゲームの似たようなシーンを連想してしまい、連想されたゲームがどうしてもやりたくなってしまう、ということなどがよくある。今回はそれをグッと我慢したのかどうかはもう定かではないけど、とても楽しく遊ぶことができた。

RPGといえばファイナルファンタジーとドラゴンクエストだけど、僕はファイナルファンタジーがクリアこそできなかったけど好きで、(クリアしなくても好きという権利があることをここに主張したい)ドラゴンクエストはいつもしっくりこない。コロコロコミックがしっくりこなくて、コミックボンボンがしっくりきた少年時代からそうだった。ドラクエにあるリア充的な、ミニ四駆的な、サッカー的な明るさに僕はついていけなかった。僕にとってドラクエの主人公たちはどこか冷たい人のようにみえてしまう。それよりもファイナルファンタジーの世界にいるキザで、どこか暗くて、いつも何かに困っていて、中二病丸出しな面々に心からいいなと思ったりしたし、今回FF7Rを遊んでみて自分には今もそういう感覚があると思った。恥ずかしい。恥ずかしさの良さがファイナルファンタジーにはめいいっぱい詰まっている。

そんな僕でも当時FF7やFF8は遊んでいる友達を横目に(くっら)と思っていた。申し訳ない。ファイナルファンタジーが好きだなと思い始めたのはFF9や10からなので、それよりまえはもちろんポケモンくらいしか大好きなRPGがなくて(いまも好きだけどポケモン)友達の家でFF7をみたときはあまりの物語の暗さにびっくりしたものだ。

不思議なことに今回FF7Rをあそんでみた感じではそんなに(くっら)と思わなかった。もしかしたらリメイクの段階で暗すぎないような調整がされているのかもしれないけど、むしろ明るく楽しい気持ちになる部分のほうが多かったように感じる。街が事故で消えたりしたけど、それでも描かれるのは人々のエネルギーやパワーの方だったように思う。

泣けると話題のFF7Rだったけど、本当に涙を流したシーンがひとつだけあった。それは感動というよりはカタルシスに近いものだった。物語の終盤、クラウド達が神羅カンパニー本社に訪れるシーンだ。

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神羅カンパニーは外側こそ警備が厳重でサイバーパンクって感じだけど、中に入ると普通の大企業。六本木の森ビルやyahoo本社みたいな作りになっている。オフィス勤めの社員なんかもたくさんいる中、おおきな剣をかついでうろちょろしていても不審がられないなんて、なんと懐の広い社風だろう。これほどの大企業になるとクリエイティビティと生産性を重視するために社員の格好にとやかくいうのは野暮なのかもしれない。いけてる企業だなあ。

ちょっと上の方にあがると来客用のミュージアムがある。カンパニーのさまざまなエネルギー事業だとか、軍事産業とかを紹介するための博物館。ぼくはこういう特になんのギミックもないけど作り込まれている景色を眺めるという時間が大好きなので、ものすごくゆっくりとゲーム内の画像をながめたりしていた。そして最後の部屋に着くと突然周りが暗くなってムービーが始まる。そこはバーチャルリアリティーの部屋で、クラウド達は神羅のバーチャル映像によって企業広告的なものをみさせられ、その後ハッキングされたバーチャル映像によって過去の厄災を体験する。ここで僕はものすごく、涙が出るほど嬉しくなってしまったのだ。

FF7Rを遊んでいる僕にとって、剣と魔法とサイバーパンクの世界は没入できるバーチャルな世界だけど、もちろんプレイヤーの僕とゲームの中の彼ら主人公の世界のあいだには距離がある。僕の頭がおかしくなったりしない限り、その距離を縮めることは絶対にできない。だけど、その距離がどのくらいなのか証明する方法がある。それがこの技法だった。

彼らの世界の中にさらにバーチャルリアリティの世界を置いて、そこと彼らの世界の距離を見せる。そして彼らはバグによってバーチャル世界から干渉を受ける。バーチャルなFF世界の彼らとバーチャル内バーチャル演出世界との距離を目の当たりにした外側の僕は、僕とFF世界との距離も同時に目の当たりにすることになる。そしてその距離が変化することや、危うさすら感じることができる。なんて素晴らしい演出なんだろうか。

ゲームってそういうことだよな、とつぶやきながら最大限の涙を流して、あとはにこにこしながら最後まで遊んだ。続編が楽しみだな。

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FF9 (2000)-ファイナルファンタジーはいつもラスボスに概念が出てくるの?-

さて、FF7Rを遊び終わり、RPGを飽きずにクリアできるほどの大人になった実感とともに、新たな野望が生まれた。(子供の頃に投げて、3回はチャレンジしたけどその度に投げているFF9をクリアしたい…)

switch版のFF9はポリゴンやテクスチャがクリアになっている。テクスチャのドットやポリゴン数なんかは当時のままだけど、表示がHDになっていて美しい。僕はこれが好きだ。たまにドット絵を綺麗にしましたとかいって滑らかにしてしまっているリマスターがあるけど、これはあんまり好きではない。それらはなんかもうドット絵ではなくなってしまっている。あくまでカクカクしたドットやポリゴンが綺麗に見れるのがいいんだ。ブルーレイになって初めてわかるセル画の筆跡のようなものに似ている。当時の造形の癖がクリアに見えて嬉しい。

1年くらい前に買ったFF9を立ち上げてみると、アレクサンドリアの街がバハムートにボロボロにされて、ヒロインのダガーが失語症になっているところあたりで止まっていた。多分1年くらい前の僕はここらへんのあまりのとりかえしのつかない悲劇の連続に心折れてしまったのだ。そのあとレゴの超簡単で底抜けに明るいゲームをやり始めたのは覚えている。

否、今回ばかりはいままでの僕とは違う。大きなモニターとソファもあり、なんといってもFF7Rをクリアしたという実績がある。これらの自信により、FF9もバッチリ遊び終わることができた。

FF9をろくにクリアできていなかったのに大好きだった理由としては、キャラクター造形にある。なんといってもキャラクターが皆キュートで、ちょっとだけクリーチャーっぽいので好きだ。中学生の頃、コカコーラのおまけのFF9のボトルキャップフィギュアを必死になって集めた。友達と一緒にコーラが大好きだという担任の先生にコーラを差し入れし、ボトルキャップの存在は先生に知らせず山分けした。主人公のジダンでさえ、猿みたいなしっぽがついている。まともな人間じゃ無いとわかると途端に安心して好きになってしまう。

内容は結構暗いことが起こるけど、FF9のジダンはFF7のクラウドみたいに(別に…)とか言わないし、とにかく明るく元気な少年なのでみていて元気が出る。中二っぽい世界観なんだけど主人公はリア充というバランスが、FF9のいいところなのかもしれない。暗かった仲間達も、個々の問題と向き合って、なんだかんだでだんだんとオトナになっていく。

ファンタジックなメインキャラクターたちはどんどん心の成長をしてゆき、彼らを取り巻く世界はちょっとづつ抽象的で概念的になっていく。ここがFF9のたまらなく素敵な点だ。終盤になって行くイプセンの古城では上下や強弱の概念が反転し、記憶の場所ではなんとさまざまな生き物の記憶そのものが場所となっている。なんだ、アカシックレコードか〜なんて思いながらラスボスは突然出てくる(永遠の闇)だったりする。

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はて?さっきまでの2つの星の衝突や、種族の争いはどうなってしまったのだろう?最終的にそういうのはどうでもよくなってしまって、アカシックレコードみたいな世界で永遠の闇に向かって、生きたい!とか言いながら立ち向かっていく感じは、なんだか00年代の始まりを思い出して懐かしい気持ちにすらなってしまう。僕はこれを肯定したい。

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FF9の世界では記憶とか概念とか気持ちみたいなものが具現化したり暴れたりするなか、主人公達はどんどん現実的になっていく。可愛らしいローポリゴンでそんな様子が描かれていた。世界がなにがなんだかわからなくなっても、よくわからない世界で各々の答えを見つけ出すエンディングは何度も見たいくらい素敵だなと思う。

スーパーマリオRPG(1996)-任天堂ワールドに侵略者スクウェア-

さて、次は何をしようかと。FF10かな?あの底抜けに明るいギャル男についていける自身は今はないな、また今度にしよう。ドラクエ?はちょっと怖いな、そんななか途中で投げ出しているゲームをまた思い出した。

スーパーマリオマリオRPGは、任天堂とスクウェア(現スクウェア・エニックス)が共同で制作したRPGで、それだけでもとても珍しい。さらに特筆すべきなのはグラフィックで、スーパーファミコンソフトなのにやたらと立体的なビジュアルをしている。これは僕の予想だけど、一度3DCGでモデリングしてからドット絵に起こしているんじゃないだろうか?もしくはめちゃくちゃ立体感を出すのがうまいドッターが絵を描いているかどちらか。

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ゲーム性も(RPGやったことない人も〜♪)なんていうCMがあっただけあり、シンプルかつ爽快感があって楽しげにできている。音楽も素晴らしいものばかり。(ボス戦の音楽なんかはニコニコ動画で流行ってインターネットミーム化した)しかしなぜかアクションがめちゃくちゃ難しい。オリジナルマリオよりも難しいんじゃない?十字キーで操作するのに、ステージが斜めなので常に斜め入力のアクションを求められる。穴を飛び越える時も、崖をのぼる時もナナメ。RPGなのにアクションが難しいなんて!

物語は全体的にほんわかと優しい雰囲気で、マリオの世界に武器の軍団(カジオー軍団)が侵略してきて、それに立ち向かうというシンプルなもの。しかしながらこの敵キャラクターの造形が圧倒的に怖い。怖可愛い。歴代のマリオ作品では見られなかった造形にとても喜んでしまった。海外のキャラクターみたいなぎょろっとした目のものや、虚無感ただようもの。とにかくクレイジーなものが多い。マリオの敵キャラクターのもつ愛嬌とはなにかがちがう。動き出すケーキ、ガリガリの槍人間、鳥をかぶったおばさん。僕は敵キャラクター達の悪魔的な造形の虜になってしまった。

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ラスボスがまた頭をいろんな武器に変化させる狂気のデザインをしていて唸ってしまったりしつつ、マリオ、クッパ、(クッパが仲間になるのは嬉しい!)ピーチのパーティでなんとかラスボスをたおして素敵なエンディング後のエンドロールで、にこやかにうなずきたくなった。そこには美麗なドット絵で描かれたマリオと仲間達のパレード。そして夜になり、パレードはキラキラと電飾をともす。この感じは、ファイナルファンタジーだ。この煌びやかさと寂しげな切なさ、全力で感動を提供するこのムードは歴代のマリオにはない。ファイナルファンタジーだけが許されるストレートな感動と美しさだ。よかった、これはやっぱりマリオとファイナルファンタジーの合作だったんだ。

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ファイナルファンタジーっていつも最後の方で別世界だとか異次元にいくよね。異次元にいく時、なんだか寂しくて、帰る家を失ったような孤独と爽快感がある。もうなにも失わないという美しい感覚。空港にいるときのような、どこにも所属していない感覚。飛空挺にのって異次元を目指す時は本当に素敵な気持ち。僕にとってファイナルファンタジーは帰る場所のない素敵な漂流を体験するゲームなのかもしれない。

さて、次はなにをしましょうかね。今やっているのは、
・クロノ・トリガー(クロノクロスをやるために)
・マリオ64(マリオとスクエニしかやってないって?)
・大神
・Ghost Of Tsushima
・モンスターファーム2
・大貝獣物語

終わったのは
・ボーダーランズ3
・ゼルダの伝説bow
・デトロイトビカムヒューマン

など

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