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宗教改革と、その問題点(1)


マルチン・ルター(1483〜1546)の登場

マルチン・ルターはオッカム的「唯名論」の信奉するエアフルト大学で学ぶ。その後、落雷の経験を機に、アウグスティヌス修道院に入る。1512年、神学博士号を得て、ヴィテンブルク大学神学部教授となり、終生この職にあった。そこで罪人である人間は、能動的な「良き業」によってではなく、全く受動的信仰態度に徹することによって、神の前に義とされることを確信するようになる。

この確信は、修道院の塔にこもって得られた確信であるので、「塔の体験」とも呼ばれている。この「塔の体験」が、彼の宗教改革の動機となる。

ところで、当時、ローマ教皇側は、特にドイツにおいて免罪符を発売し、ローマの聖ピエトロ寺院建設の大いなる財源としていた。当時、ドイツは「神聖ローマ帝国」=「ドイツ帝国」という形式上だけの帝国支配下にあり、その実質は各封建領主達の乱立状態にあり、国全体としての国家の意志が欠けていた。これに対して西のフランス王国は近代的中央集権的統一国家を既にして自立しており、ローマからの免罪符は断固として、はねつける意思を持っていた。したがって、封建領主の乱立しているドイツは、ローマの募金活動には格好の草刈り場であった。

しかもこの免罪符を買っても許されない罪があった。それは、宗教が全く関係のない南ドイツ鉱山の独占権を犯す罪であった。当時、「南ドイツ鉱山の独占権」は、免罪符発売に協力的な南ドイツ・フッガー家の経営する鉱山であった。このような条件をつけて販売された免罪符については、常識ある人間なら誰しもおかしいと思うはずであった。ただひたすら受動的信仰態度に徹しようとしていたヴィッテンベルク大学教授のマルチン・ルターも、さすがにこのローマからの免罪符発売については我慢がならず、その異議申し立てを1517年10月31日「95箇条の提題」 (要するに、異議申し立て)として、ヴィッテンベルク教会の扉に貼り出した。これが宗教改革の狼煙となった。もとより、ルターはこの程度でカトリック教会そのものから分離などは考えていなかった。しかし、討論を重ねていくうちに次第にそのことは決定的になっていた。

ドイツの政治について


他方、この時期のドイツの政治にとっては大変重要な変革が進行していた。神聖ローマ帝国=ドイツ帝国は地理的なドイツ領ばかりでなく、スペイン王国をも支配し、フランスを中に挟んで東西にまたがる大帝国であった。この時期、この神聖ローマ帝国の帝位に着いたのが、もともとスペイン王家のカール5世であった。当時、スペイン王家はネーデルランド(現オランダ)をも支配し、海外にも膨大な植民地(東アジアでは現在のフィリピン)を持つ大王国であった。スペイン王家の出身でありながら、ドイツ帝国も相続したカール5世はなんとドイツ語を満足に話せない皇帝であったという。ドイツ語も満足に話せない皇帝ではあったが、ドイツを支配するためにはぜひとも、ドイツ封建諸侯の支持が必要であった。

この時期のドイツ封建諸侯は、盛り上がる農民たちの「自由農」たることを求める農民運動に悩まされていた。そこで、ドイツ封建諸侯としては、一方で、ローマ教皇側の力を借りて盛り上がる「自由」を求める「農民運動」を鎮圧し、他方ではスペインとドイツの両者の支配者となった。皇帝権があまり強大にならないようにという二方面的駆け引きに躍起になっていた。

権威は「教会」から「聖書」へ


以上のような政治的状況のもと、1520年8月ルターは「ドイツ国民のキリスト教貴族にあたう」という小冊子を発表し、ドイツのための教会改革を主張し、ローマ教皇の権威に代わる「聖書の権威」を掲げたのであった。1520年11月「キリスト者の自由」出版。このような事情であるので1520年12月ローマ教皇はルターを破門する。しかし、その破門状をルターは公衆の面前で焼き捨てる。従来なら焚刑であった。しかしルターの行動に密かに共感を示す領主もあった。

このような事態に対して、スペイン王兼ドイツ皇帝も黙って見過ごすわけにはいかなかった。そこで1521年春、今度はあのカール5世がルターをヴォルムスの国会に呼び付けて査問するという事態になる。この国会の査問にルターは有名な言葉を吐き、その決意をあらわにする。「私はここに立つ。私は他の様ではありえない」と。これに対し手こずったカール5世はルターをドイツ国法の保護の外に置くと宣言し、ルターを国会会場から追放する。これは誰でもルターを暗殺してよろしいという意味を含んでいた。

このヴォルムスの国会を出た瞬間、ルターは何者かの一団に拉致されてしまう。それは覆面の騎士団であった。この騎士団は、実はザクセン選帝侯フリードリヒの派遣した騎士団であった。この騎士団は、ルターの自国領土内のワルトブルク城内にかくまうことになる。このワルトブルク城に囲まれた9ヶ月の間、ラテン語の新旧約聖書を当時のドイツ民衆の誰でもが読める平易なドイツ語に翻訳し直す。新旧聖書は当時開発されていた印刷機によって大量に刷られ、瞬く間に広く頒布されることになる。ルターのこのドイツ語聖書は、今日もなおドイツの各家庭にあるという。

しかし、ここでルター派は、重大な神学問題にぶつかることになる。というのも、ルターは聖書を読むことによって、人はイエス・キリストの教えに接し、キリスト教徒になるのだと解いていたはずである。とすると、それまでのキリスト教徒にとって当然のこととされていた「幼児洗礼」は認められないことになる。というのも、幼児はまだ聖書を読む能力がないからである。次回、従来からの教会が幼児洗礼をどう扱ってきたかを見てみよう。

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