なんとなく妻の元旦那の姓にしてみた

昨今夫婦別姓の話題について議論が盛んに行われているが、正直そこまで悩む問題なのかと考える。

議論自体はもう30年以上前からあるのだが、保守派の意見も革新派の意見にも賛同できないし、私見ではあるが「どっちでも良いしそこまで正直悩む問題だろうか?」というのが率直な意見である。

私は12年同棲し事実婚状態だった現在の妻と5年前結婚した。

そのときにふとまだ自分が高校生のぐらいのときに「愛国党」という故赤尾敏氏が立ち上げていた右翼団体の張り紙を思い出した。

「夫婦別姓反対!日本の家族が崩壊する!」とそんな感じで書いてあったと思うが、そのときの自分の感想は「んな大げさな~」と一瞬思っただけ。その当時は政治にもまったく興味なしのノンポリだったのでほんの一瞬思っただけだったが、それがずっと20年以上脳裏に焼き付いていてどこか気にはなっていた。

それから数十年が経ち、自分が婚姻届けを出す立場になってたから急にそのことが思い出された。

私の妻はバツ1だが、自分の前の姓が「ダサい」という理由で離婚してからも旧姓に戻さず(正確にはわざわざ戻さない申請をして)そのMという姓をずっと名乗っていた。

さてじゃあどっちの姓を名乗るかという話合いをしたのかもう記憶にないが、私の方から「俺が今の○○ちゃん(妻)の苗字にするわ」と言ったのだけは覚えてる。

妻は反対したが、私は昔から自分が生まれ変わるには名前を変えるのが一番だという何故か思い込みがあり、これまでも軽い美容整形や自分探しの旅とやらで世界中を1年放浪したり海外で生活してみたり、終いには喉ちんこを切り取る手術までしてきたが、やっぱり名前を変えるのが一番「生まれ変わり」に近い儀式のように感じた。(結婚しなければ睾丸摘出手術とやらも視野に入れてました)

ついでに「分籍」なるものもしておこう、と思い婚姻届けを出す3週間前に分籍手続きも役所で行いました。

分籍したのは家族仲が悪いというほどではなかったが、もう関わり合いは止めておこうと思ったからです。最初役所に行って「分籍したいのですが」と受付の人に言うと、「二度と戻れなくなりますよ?」と軽く拒絶されたが、結婚前に身を清める覚悟があるのでと適当なことを話したらようやく分かってくれた。

話は少し逸れますが、何故か役所ってところは「結婚」という文字に弱い気がしてなりません。

私の気のせいと言われてしまえばそれまでですが、そのときも結婚するのでというと係の人の顔色が少し変わり「あ~~結婚するのですか!?それはおめでとうございます!」とそれまでつっけんどんだった対応も物腰柔らかくなった気がします。前にも別の役所に婚姻届けを取りに行ったら深々とお辞儀をされて「おめでとうございます」と言われたことがあります。

そんなこんなで確か分籍に2週間ほどかかった記憶がありますが、そのあと婚姻届けを出し無事入籍。

ただそのときはまた分籍とは別の役所に提出したのですが、あっけなかったというか姓が逆転していても受付は粛々と記入に誤りがないかだけチェックして終わりでした。

その後1年ほどして家庭裁判所に行き、元の妻の姓に戻したのですが、およそ1年ほどは妻の元旦那の姓で生活しました。

それこそ世間では「男のプライド」「情けない気分はしないの?」だの言われそうですが、私はまったくそういうのはありませんでした。

今時は違うかもしれませんがひと昔前は「男の癖になんちゃら」というのにすごく違和感があったので「それ誰が決めた定義?」と突っ込みをいれたくなるほど理解不能なセリフでした。

それ決めて誰が得するの?って感じでした。

よってそういう思考の人のセリフは無視が一番。

それで結論を書いてしまうと姓を変えても妻の元旦那の苗字にしても何も変わりません。ただ変更手続きが面倒になる、というか本当に呆れるほど大変になります。

昔小中時代あだ名が「だーちゃん」って呼ばれてたが、高校からいきなり本名で呼ばれたほうがよほど違和感があったほどで自分の中で変化はありませんでした。

私のアイデンティティが崩壊するとか、そんなことは一切ありません、当然の話なんですが。

ここでアイデンティティについて私見を述べると、国籍や性別や名前で括るべきではないというのが私の考えです。

それより己の信念や正義をコロコロ変えるほうが誰からも信用されない人間に成り下がるような気がします。

「俺様正義」については賛否両論ありますが、自分がこれはどうしても譲れない正義だと思ったことを簡単に曲げることは自分の損に思えてならないのです。

良い悪いは別にして、それが仮に間違った正義であったとしても死ぬまで貫き通す人はやはりその正義を応援してくれる人が現れるし、信用度がまったく違います。

他人の意見に耳を傾けるのは大事なことですが、二転三転説得されたからすぐに変わるというのは誰からも信用されなくなるというのが私の経験上で言えることです。

ある意味頑固な人のほうが人間的に魅力があるように思えてならない。

国籍や性別や名前を変えるという行為自体ではその人の本質はなにも変わりません。

自分なりにアイデンティティを定義するとすれば、アイデンティティとはその個々の人生の経験に裏打ちされて形成されるものであって、生まれもってしかも偶然に手に入っているものがアイデンティティだとは思えません。

出身地や国や国籍を愛する人はそれはそれで否定はしませんが、偶然にしてその地に生まれた、国に生まれたという意味ですから深い想い入れをする人が個人的には理解できない存在でしかありません。(宗教の自由のように勝手に愛していれば良いと思います。)

私には特殊な持病というか体質がいくつかあったので、それに比べれば何かを否定されるとか自分が自分でなくなる感覚とかゼロに等しかったです。

元旦那の名前に変えるのも自分自身で不思議に思うほどなにも感じませんでした。

まぁその元旦那さんとお会いしていれば一瞬は葛藤があったのかもしれませんが、一度も会ったことがない人に対してなにかの思い入れは露ほどもありません、当然のことです。

それと妻との長い付き合いの中で元旦那との未練が僅かでもあれば、私も苗字を元旦那さんのほうにしようとは思わなかったでしょうが、とにかく「もう過去の人」として忘れているような存在だったので微塵も私も特別な感情をわくこともありませんでした。

それでは何故元旦那の姓から妻の姓に戻したのか?

これは妻の要望であり、しつこいようですが「生まれ変わる」という実感がもてない、ただ呼び名が変わったというだけだったからです。

しらけたので名前なんかもうどうでもいいか、って思ったので妻の姓に戻したのが正直な理由です。

それでもやはり職場では名前をコロコロ変えていたので「国籍が日本じゃないんじゃないか?」と疑われましたがそんなのどこ吹く風気にしないのが私の長所です。

今は妻の姓を名乗って4年になりますが、職場でも病院でも美容室でもどこでも妻の姓を言われれば反応します。

職場では3つあったので3種類を使い分けて呼ぶ同僚もいますが今はそんな日々を楽しんでいる状況です。



#創作大賞2023 #エッセイ部門

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