見出し画像

「2011年3月11日(金)」になにをしていたか

錦糸町のビルの9階。
セルフカフェで、コーヒーと甘いものを買って、席に座って、
さて食べようかな、としていたところだった。
店内にはベビーカーも何台か。同じビルにアカチャンホンポも入っているので、ベイビーや小さいお子さんを抱えたお母さん方がいた。
大きな揺れが来て、同じフロアに入っている本屋さんの本棚から本がバサバサ落ちていくのが見えた。
カフェの店内はお母さんたちの短い悲鳴が聞こえて、店員さんもあ然としていた。
止まったエスカレーターを駆け下りていく人影も見えた。
「危ないね」
吹き抜けになっているエスカレーターやエレベーターは、そのまま落下する可能性があるからだ。
連れとうなずきあった。

当時、私はとあるチェーンの飲食店で勤務する店長だった。
この日は、月に1度の定例の関東店長会議の日だった。
15時からのスタートで、ちょっと早めについた私ともう一人の店長と、スタートまでお茶でもしよう、とカフェに入った。その矢先だった。
店員さんがまったく動かず、だったので連れの店長がお母さんたちに「大丈夫ですか?」と声をかけて安心させる。
そのうち、館内放送が流れて「ビル内の全員、階段を使ってビルの外に避難」という指示が出た。
連れの店長が、お母さんのベビーカーを抱え、私が店長の鞄を持って、お母さん達に声をかけながら、みんなで階段を降りていく。
9階から降りるのでけっこうしんどい。しかも他のフロアからも全員階段に集中するので、このときはちょっとヒヤッとした。ここで大きめの余震やドミノ倒しになったら大惨事。
フロアごとに順番に退去や、外に出ない方が安全という選択肢もあるのにな、、、と、
店長側の(対応する側の)意識で色々考えていたが、自分のお店が心配になった。
「Aさん大丈夫かな、、、」

無事、館外に出て駅前の広い場所まで移動し、お母さん達にお礼をされて、私は自分のお店に電話した。
まだ地震が起きたばかりの時間だったので繋がった。
このとき本当に繋がってよかった。
この当時、私が担当していたお店は、14時から18時まで1人営業いわいる「ワンオペ」をしていた。
この時間にお店にいたのがAさんという主婦さんで、ちょいちょい相談されていた。
確かに、客数的には1人でも大丈夫だが、何かあった時に心配です、と。
「何か」があってしまった。一番最悪の。

電話で確認したところ、店内に2組お客様はいたが、食事も済まれていてすぐに店外に避難。
Aさんも避難したいところだったが、お店が空っぽになってしまうのでどうすればいいですか?
と確認しようとしていた、とのこと。
「Aさんもすぐ避難してくださいね!」
この一言が伝えられて、よかった。

よりによって、店長陣がお店にいない日に地震が来てしまうとは…。
広場で他の店長にも何人か会って、それ以外にも大勢の人がいた。
そしてお店の情報収集をしようとしたマネージャーの電話はすでに繋がらなくなっていた。
そんなこんなしているうちに、電車もストップ。
「これってもしや、私達もピンチ、、、」

それから、一番近くのお店まで歩いて行ってみよう。となり、
その途中で空いていた居酒屋に滑り込んで、朝まで過ごした。
その時は、情報がまったく入っていないというのもあって、明日になればなんとかなるでしょ。
とみんなのん気に構えていた。
一応、朝の電車は動き出して、それぞれお店に帰っていった。
その後、計画停電などなどで関東は落ち着かない春をむかえる。

---
思えば、このあと数年に渡って、幾度となくこの日の話を人と話したり、
思い返したりしていた。
だから、9年経った今でも、当時のことは覚えている。
カップを口元まで運んで口をつける、まさにその時!!という、コントみたいなタイミングだったのもよく覚えている(笑)
この日、関東の人はみんな「この日の当事者」になった。
だから、このあとの津波や原発事故も、やっぱりちょっとずつみんな当事者意識を持っている。
そんな気がする。

大きな台風が関東に上陸したとき、私は、お風呂を洗って湯船に水をためた。
これは、『ぼくのじしんえにっき』という絵本からの知識。
結局、お風呂の水は何にも使わず、そのまま流すことになったんだけど、
それでも台風は来ると分かっているから、備えることが出来る。
「災害の時にどうすればいいか」を、知識だけでなく実践している。

3月11日、当日の日のことはもう誰かに話すようなこともなくなったけど、
その時になにをすべきか、どうすればいいか。
は、この日がくるたびに、振り返って備えていようと思う。


気に入っていただけましたら嬉しいです。 もっと哲学と数学の話として還元します。