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【社会的交換理論】ホーマンズやブラウの打ち立てた社会的交換を真っ向から批判した書籍(Ekeh, 1974)※小川(1980)訳

引き続き、社会的交換理論シリーズです。難しい投稿が続いてすみません・・・。でも、交換という概念ひとつでここまで語られるのか、という感じで、個人的には面白いと感じています。


どんな書籍?

本著は、社会的交換と言う概念による理論化を目指した、ホーマンズやブラウという二人の理論を整理し、それまでの理論との違いを明らかにした上で、両者の理論の限界を批判的にとらえることで、社会的交換理論の視点を強化しようと試みたものです。

著者のピーター・P・エケは、ナイジェリア出身の社会学者で、ナイジェリア最古の大学であるイバダン大学で経済学と人類学を学び、スタンフォード・カリフォルニア両大学で社会学を修めた方です。

本書では、2つの社会的交換理論が、その社会的伝統において対比的に描かれます。一つはレヴィ=ストロースに代表される「全体主義的」伝統であり、他の一つはホーマンズに代表される「個人主義的」伝統です。

エケの主張を簡単かつ乱暴にまとめるなら、

  • 個人主義的伝統にもとづき、人の功利的な経済学的動機と心理的欲求にもとづく「個人主義的社会的交換理論」(ホマンズ、ブラウの系譜)は、本質的に両立しがたい基本経済学と行動心理学を混ぜており、問題がある

  • 一方、全体主義的伝統にもとづき、経済学的な動機でなく、心理的欲求と社会的欲求に裏打ちされた「全体主義的社会交換理論」(モース、マリノフスキー、レヴィ・ストロースの系譜)こそが、社会的交換の本質を示している

と言えます。

社会人類学者・レヴィ・ストロースは、交換理論の大家としての認知は薄いようです。実際、Wikipediaを見ても「交換」と言う文字は出てきません。

しかし、エケは、レヴィ・ストロースの著書『親族の基本構造』を通して、「人間は生物的存在であるのと同様に社会的個人である」「人間の社会的側面こそが、人間に社会的交換としての明確な象徴的価値を操作する能力を与える」と論じていると指摘します。

言い換えれば、レヴィ・ストロースは、社会的交換は、経済的な理由からでもなく、心理的な理由からでもなく、社会的な存在である人間が、その社会的な側面ゆえに行うもの、と言っています。

単純な二者間の交換においての説明要因とされる、経済的な理由としての「報酬(あるいはコスト)」、心理的な理由としての「罰(あるいは是認)」ではなく、
社会全体における交換は、社会的な意味合いを持つ、と説明されます。

例えば、ある人(A)がある集団の中で、違う人(B)に対する返礼を怠ったとすれば、その社会集団において他の人々がBに対して償いをしなくてはならない、という意味です。

(正直、わかりやすく説明するのが難しいところです・・・レヴィ・ストロースの交換を理解する手助けとして、以下のリンクを貼っておきます。これも難しいですが・・・)


全体主義的伝統と、個人主義的伝統

エケによれば、社会的交換といっても、それが、個人的な功利主義なのか、全体としての利益を前提としたものなのかによって、まったく異なるようです。

西欧的な個人主義にもとづく理論と、非西欧的な全体主義にもとづく理論の系譜が存在し、今なお統合されておらず、併存された状態となっています。

個人主義的なパラダイムでは、経済的な合理性に基づき、二者間の個人間の関係において心理的な報酬や罰が交換される、という考え方がなされます(ブラウは、二者間を超えて集団レベルでの交換に着目しましたが、基本的には個人主義的パラダイムに属します)。

全体主義的なパラダイムでは、二者間の関係を超えて、一般化された交換が行われる、という考え方が生まれます。一般化された交換というのは、経済としての社会を重視する立場では、二者間の交換にとどまらないやり取りを指します。

個人主義的パラダイムに基づく社会的交換理論は、ホーマンズ、ブラウなどの英国における社会学者によって築かれ、
全体主義的パラダイムは、モース、マリノフスキー、レヴィ・ストロースといった、フランスにおける人類学者によって築かれてきた、と説明されています。

エケは、こうしたパラダイムの違いという最も大きな観点から、交換の概念の違いや論理構造といった微細な部分に至るまで、精緻に比較研究を行います。

なお、訳者である小川氏は、ナイジェリアの学者であるエケが、西欧式の個人主義的社会交換理論ではなく、非西欧式の全体主義的社会交換理論を推したのは、単なる合理的納得性を超えた影響があることを示唆しています。


個人主義的社会的交換理論の批判

上に述べてきたような、パラダイムの違い以外においても、ホーマンズやブラウが整理してきた(個人主義的)社会的交換理論を、次のように批判しています。

問題なのは、基本経済学と行動心理学とを統合するという仮定である。われわれの用語で述べれば、それは、異なる形式の象徴的行動をよりよく説明するために、象徴的行動と被象徴的行動が統合し得るということになる。複雑な人間行動の両極にある二つの科学、すなわち基本経済学と行動心理学を統合する必要があるのかを人は問うであろう。あるいはより直接的に、基本経済学と行動心理学のいずれかが人間的交換行為を説明できたのかを問うかもしれない。(中略)基本経済学を行動心理学と統合させようとしたホマンズの方途については検討する必要がある。
(中略)
しかしなお、ホマンズは実際に経験したものを強調する「心理的報酬」と、将来における可能性と不確実性の計算を含む「経済的報酬」との混乱を持続させていた。少なくとも、『社会的行動』において提示された彼の社会的交換理論は、完全な行動心理学的還元主義を意図したものではなく、むしろ心理経済的還元主義であった。しかし、心理学と経済学の二つは、彼が望んだほど容易には組み合わせられなかったので、各々別個に非均一的な形で交換理論に影響を与えていた。

P137

つまり、理論的根拠として、実際に経験した是認や罰と言った「心理的報酬」と、将来における可能性や不確実性の計算を含む「経済的報酬」を区別せず両立させて扱った点に欠陥がある、という指摘です。

なお、ホーマンズの社会的交換を発展させたブラウは、こうした両立の難しさから、経済的な動機に絞って、理論的な整理を行っています。

ブラウの交換理論はー基底的欲求は心理的であるというブラウの主張にもかかわらずー経済的動機に基づいているのである。例えば、権力と地位のような、より複雑な社会構造についてのブラウの説明もまた経済的動機によってなされていると考えられる。少なくとも交換理論に関してのホマンズとブラウの間の相違は(中略)ホマンズにとっての心理的欲求、ブラウにとっての経済的動機と言う、彼らが各々自己の理論にとって基本的であると個別に仮定している基本的原理に依拠しているのである。
(中略)
いうまでもなく、ブラウはホマンズの社会的交換理論からB・スキナーの条件付けの行動心理学を消却し、自己の社会的交換理論を完全に経済的動機に基づくものとしている。

P222

二者間の交換に限定したホーマンズの理論を拡張し、集団における交換も射程に含めたブラウでしたが、エケに言わせれば、経済的な動機に依拠している時点で、個人主義的なパラダイムの産物であり、それでは説明できない、社会的な動物としての人間の交換行動を捉えきれない、とのこと。

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このように、ホーマンズやブラウの社会的交換理論に対する批判を重ねている本書ですが、そもそもの話として、こうした理論の穴をつき、批判し、批判されていくことこそが、理論を精緻化する、というのは、どの人文社会学者にも共通する姿勢です。

いわゆる、弁証法というやつですね。


感じたこと

これまでは、経営学の研究においてよく参照されるブラウや、その理論的基礎を作り上げたホーマンズの社会的交換理論を中心に紹介してきましたが、

今回のピーター・P・エケは、その社会的交換理論を「個人主義的」であると批判し、マリノフスキー・モース・レヴィ・ストロースといったフランス的な全体主義的社会的交換理論の有効性を示そうとしました。

興味深いことに、逆の立場から、ホーマンズやブラウの社会的交換理論を見ることにより、その特徴を理解しやすくなりました。

経営学、もっと言えば、組織行動論的な文脈の場合、社会的な意味合いが強すぎると、組織を超えた力学になってしまい、組織におけるリーダーシップやメンバーとの相互作用を説明しにくいため、ホーマンズやブラウが重宝されてきたのだろうということがわかりました。

言い換えると、「論拠として使いやすいから使われている理論」とも、言えるかもしれません。
人間の行動を規定する、社会性や社会的意味合いにまでまなざしを注ぐことの方が、実は本質的なのかもしれない、と、エケの主張から思わされました。

まだまだ、巨人たちの考えのほんの一部に触れた程度ですが、あまりにも深遠な思索の旅がゆえに、何度も反芻しなくてはしっかりとした理解(つまり、大学でこうした説明をできる先生方のような理解)には至らない気がします。。。

(大学の先生方に対する敬意は、以下投稿で記載しました)






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