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#050 未来にある原体験

1987年12月21日。16歳になった翌日にバイクの免許を取った。本当なら誕生日に実現するはずだったが、当日はあいにくの日曜日。つまり試験場は休みだったわけで、きっとお預けを食らったような顔で過ごしていたに違いない。バイクはすでに手に入れていたため、人生で最も長い一日に感じていたことだろう。

ともあれ、かたわらにいつもバイクがある生活を迎えて32年目になる。それなりの年月を経たものの、今も新しいバイクに、新しい技術にワクワクし、飽きることがない。そして、常に欲しいバイクが幾台もある。

ひとつ変化があるとすれば、欲しいバイクのリストに小排気量車が加わるようになった。そういう愛玩的なバイクが単純に好きなことに加えて、来年の夏に16歳を迎える娘の存在も無関係ではない。あまり声高に口にはしないものの「早くバイクに乗りたい」と思っているらしく、受験する高校が免許取得OKかどうかも気になるポイントのようだ。

もしも本当に娘がバイクに乗り始めたなら、心配なことこの上ないだろう。反面、「最初のバイクはなにがいいかな」なんてことも考える。免許を取ったからといってバイクを買い与えるのは親バカが過ぎるが、どうせいつか乗るなら早いに越したことはない。だったら自分の街乗り用という名目で125ccあたりのなにかを手に入れておき、娘が無事に免許を手にしたなら、タイミングを見て譲るのはどうか。そんな想像も手伝い、欲しいバイクリストが増えていく。バカ親なのかもしれない。

娘にとってのバイク原体験。それはモトグッツィのV7だ。10年ほど前のこと、当時の僕は街乗りから草レース参戦までそれ1台でこなしていたのだが、中でも多用していたのが保育園への送り迎えだ。タンデムステップに足が届くか届かないかの頃だったから、今にして思えば少々危なかった気がするものの、クルマ酔いする娘にとってバイクのリヤシートはお気に入りの場所になっていた。

物心つくかどうかの頃に感じた特別な音や匂いや風。五感をくすぐるそれらは身体のどこかに残っていて、多かれ少なかれ趣味嗜好に、もしかすると人生にすら影響を及ぼすことがあるのかもしれない。娘にとってどうかは分からないものの、自分自身のことに当てはめれば、間違いなくそうだった。

僕のバイク原体験は、父親が乗っていたヤマハのビジネスバイク、メイト90だ。おそらくそれをカッコイイとは思っていなかったが、甲高い2ストロークの音やマフラーから吐き出される白い煙は力強さの象徴に思えた。

それは父親という存在に対しても然りで、バイクを操れるという行為を通し、大人と子供との間にある歴然とした差を見せつけられた。「大人ってスゲェ」と素直になるしかなく、よくせがんでは乗せてもらっていた。娘のそれと決定的に異なるのは、シートの後ろではなく、前に乗せてくれたことだ。バイクの構造上それがたやすく、時代的にもおおらかだったこともあり、スロットルも度々握らせてもらった。

もちろん、ちゃんと手を添えてくれていたわけだが、自分の右手の動きに連動して排気音が高まり、車体がグングン進んでいくあの浮遊感はたまらなかった。メイト90はゲッターロボとなんら変わらない、強くてたくましい空飛ぶマシンそのものに思えた。

父親にしてみれば、息子のたわいない願いを聞いたに過ぎないが、その時抱いた「いつか自分でバイクに乗るんだ」という思いが今の仕事につながっている。それは決して大げさではない。

『オートバイのかたわらに立っているだけの人は、オートバイにまたがって走り去る人を、ただ見送るほかない。それ以外のことが、その人には出来ない。なんという悔しいことか』

これは片岡義男が旅の雑誌に寄せたエッセイの一文である。それになぞらえるなら、父親はひとりで走り去らなかった。悔しい思いをさせることもなかった。ビジネスバイクだろうと、日常のひとコマだろうと、一緒にスロットルを開け、風を感じる歓びを一緒に体感させてくれたからだ。

これまでの何十年かがそうだったように、これからの何十年かもバイクに対してはいつまでも変わらない気持ちでいられるのだと思う。その下地を作ってくれたことの意味はあまりにも大きい。

バイクに乗ることそのものが生活になった今、結果的に家業を継がず、父親ひとりを置き去りにして家を出てきてしまった。年齢を重ねる度、「これでよかったのだろうか」という思いが募る。

父親が息子に対してどういう思いでいるのか。そんなことは面と向かって聞けないが、思考も行動も僕にそっくりだと言われる娘が、いつかそれに気づかせてくれるのかもしれない。

初出:ahead 2019年6月号

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