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SNSの罪と罰、あるいはアートの根源は共感ではなく違和感であることを思い出す

タイトルは大きく書いちゃったけど、そんな大それたこと書くつもりないですよ。とはいえ、最近よく思ってることを書きますね。今日は短めに。

皆さんもご存知の通り、SNSでは日々写真がバズってます。それがもう日常ですよね。でもよく色んなインタビューで話すんですが、5年前は違いました。まだプロのほとんどがSNSで写真をやることを真面目に捉えてなかった時代がありました。その是非はおいといて、そういう時代から5年を経て、今やSNSを使ってない人を探すのが難しいくらいかもしれません。

さて、そんな中で様々な形でSNSと写真のシナジーの高さが実証され、SNSを効果的に使うための分析がなされ、そこに最適化するように写真そのものが変化していったわけなんですが、2020年代において現出したのは、その母数が増えてSNSに最適化されれば最適化されるほど、写真表現がコモディティ化するということでした。そのことはこれからもずっと書いていかなきゃいけない主題の一つです。僕らの世代が背負う、それこそ「原罪」のようなもの。

(1)タイムラインを汚したい

それはさておき、写真表現がSNSの中でコモディティ化する中で、これまで色んな方面から対症療法的な抵抗を文章で発してきたんですが、今日は根源の部分を書いておこうかなと。てか、最初に書いとくべきことだったのを忘れてて、慌てて書いてる感じです。で、結論を書いちゃうと、「アートの根源は共感ではなく違和感だよね」という話です。

何度か僕は、TwitterのタイムラインにこんなツイートをRTしてます。

タイムラインを汚したい・散らかしたい説。これ、アルゴリズム最適化への抗いなんですが、この抗いにある根源は、僕が研究者として学んだバックグラウンドがあると思うんです。つまり「アートにおける違和感の機能」です。

(2)異化

文学研究の中では大文字で扱われる項目の一つに「異化」という言葉があるんです。文学研究者シクロフスキーが20世紀の初頭に提唱した概念ですが、「知覚の自動化」を防ぐために、日常的な存在を非日常化するための手法を言います。以下、Wikiから引用します。

異化(いか、 ロシア語: остранение, ostranenie[1])は、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法。知覚の「自動化」を避けるためのものである。ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/異化

この話を続けすぎると、多分誰も読んでくれないと思うので、ささっと飛ばしますが、芸術一般が退屈にならないためには、常に世界を「異化」していかなきゃいけないってのが、シクロフスキーの言いたいところだと思うんですね。

(3)共感の最大化を目指すSNSの「罪と罰」

で、振り返ってみると、SNSというのはまさにこれの逆なんです。どれだけの驚き、どれだけの感動、どれだけの新鮮な表現が出たとしても、一瞬でそれが模倣されて、当たり前になってしまう。つまり「コモディティ化」です。にも関わらず、アルゴリズム的には「コモディティ的表現」がインプレッションを最大化するためには最大効率的で、結果として慣れ親しんだ表現を続けることが「勝ち筋」になる。つまり「タイムラインを整える」必要が出てくるわけです。

こうしてSNSにおける写真では、本来自己を埋没させるはずのコモディティを目指すことが、自己の存在を情報として最大化するという皮肉な状況まで作り出してしまうわけです。ニーチェがもし今生きていたら「なんという価値の転倒!!」と、嘲笑ったことでしょうね。

ニーチェは置いといて、SNSに戻りましょう。この「コモディティ化的表現が最もインプレッションを獲得する」という皮肉な現象の基盤にあるのが、つまりは「SNSの共感」なんです。アートは本来、人の足を止めて、ゆっくりと現実への再考を促すような、飲み込みづらい部分があるからこそ、この現実世界に豊穣な「余白」を作る機能があったわけです。現実世界が「右に倣え」と押しつける無個性化への抵抗が、個々の人間の魂の叫びとなって、世界に対する「否」として叩きつけられてきた。その長い抵抗と反逆の歴史こそがアートの根源にある力強い命脈だったと思うわけです。

それは「共感」を期待して成立する場所というよりは、「違和感」への静かな対面であり、その違和感を個々人が自分のスケールで飲み下していく過程で生まれていくものだと思うのです。でも、そんなゆっくりしたものは、SNSでは到底顧みられない。だから平たくいうと、

SNSにおいては、共感を最大化するコモディティ的表現を集約した画像botになるのが勝ち筋

となってしまったわけです。SNSの罪と罰です。

(4)自分を乱すことを意識する

さて、そういう時節にあって、僕は最近、可能な限り「違和感」を意識したいと思うようになりました。それが上の方で引用した「タイムラインを散らかす・汚す」というテーマです。自動化や、シクロフスキーのいう「化石化」に対抗するためには、まずは自分自身を乱していかなきゃいけない。自分の表現を自分が壊していかなくてはいけないと思ったんですね。もちろんそれは、一時的には自分を見てくださるフォロワーの減少を引き起こすでしょう。仕事も減るかもしれない。

でもね、長い期間で気づいたんですが、最後の最後のところで一番大事なのって、自分の楽しさなんですよね。シャッターを押すことが苦痛になる前に、もう一度「これ面白い!!」って思える方向へと自分を向けていかないと、自分が辛くなるんですよ。最初は「いいね」やフォロワーが増えることが楽しかった時期もあったけど、最終的には楽しくシャッターを切りたいんです。SNSのインプレッションやアテンションは確かに仕事的には大事なものなんですが、仕事的に大事なものを優先して、自らの魂がやせ衰えちゃったら元も子もない、そんなふうに思うようになりました。

てことで、最近僕はずーっと逃げてきたポートレートもやってるんです。自分で見ても、モデルさんには申し訳ないくらいにへたっぴなんですが、写真を始めた時に感じた「違うことをやっている」という渇望がそこにはあって、楽しいんですよね。絶望しないためには、自分を捨てなきゃいけない時って、あると思うんですよね。あ、歌舞伎の守破離みたいな話に落ち着いた。まあこの辺りで。

先日誕生日だったそうなので、最後に載せときました。おめでとー


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