崎山蒼志くんの音楽に関して思ってたこと(そろそろCD発売ですよ!)
一つ原稿を終えて、少しインターバルを空けた後、もう一つ原稿を書いてから寝ようと思ったんですが、どうしても他に書きたいことがあるとそれを書かないではいられないんですよね。崎山蒼志くんのことです。
崎山くんの名前を知ってる人も多いと思いますが、高校生で天才的な歌を作ってる方です。「高校生で」、とかいう枕詞をつけてしまうのはあくまでも世間の慣例に従ってのことで、そういう若さゆえの特権性みたいなものを剥ぎ取っても、彼の才能は多分天才と呼んでもいいものだと思うんです。
天才ということばが僕は嫌いで、というのは小さい頃僕も一瞬だけその様に呼ばれた時期があって、でも小学生が終わる頃には無残なほどに僕は平凡な人間に落ち着いたので、長い間一種の天才コンプレックスみたいなのがありました。でもそういうコンプレックスが落ち着いたあと、改めてその「天才」という言葉が使われている時の、「積極的無理解」とでも言いうる様な語感が嫌で、以降、よほどのことがない限りあまり使わないようにしています。
そう、天才なんて言葉は、軽いんです。
その才能に、その努力に、その苦しみに、その悲しさと流された血と涙に。天才と呼ばれる人間は、ほぼ例外なく、余人では伺えない孤独の中に生きています。世間や他者の無理解や排除。受け入れられた後も、次第に大きくなっていくズレや、ポジティブな評価に反比例して増えていくネガティブな反応。そうしたものを一切背負い込むのが天才の生涯です。僕はそんな生涯、まっぴらごめんで、平凡で良かったと今は心から思います。だからこそ、本物の才能が出た時、「天才」なんてお手軽なレッテルを付けて悪魔祓いしてしまうんじゃなくて、できるだけちゃんと受け入れたい。特にそれが若い才能であればあるほど。
崎山くんの音楽の特徴は、この一曲を聴けばわかるだろうと思います。
この曲を崎山くんは13歳の時に歌っていて、それはもう、僕にとってはほとんど言葉と音楽の神が彼の中には降臨していると言われたら信じてしまうほどの、それくらいの圧縮された世界が形成されています。
音楽も言葉も、基本的にはルールに則っています。そのルールの効果を十全に知った人間は、次第にそれを使って「芸術」を作り出します。芸術とは、いわば「効果」を最大限意識的に可視化した総体と言えます。つまり、芸術とは「高度な技術」なんですね。語源を見ても、英語のアートはギリシャ語のテクネーから来ていて、つまりはテクニックであり技術なんです。
こうした芸術の技術的側面は、特にハイカルチャーになればなるほど強くなる。誰にでも絵はかけるし、言葉は使えるにも関わらず、画家のようには描けないし、小説家や詩人のようには語れないのは、その間には飽くことなく繰り返されて身についた「技術的卓越」が無限に近いほどの違いを作り出してしまうからですね。
勿論、画家も作家ももしかしたらそんなことは考えていないかもしれない。芸術家とは、いわばそういう「技術的効果」みたいなものを無意識的に、永続的に学べる人のことを指すのかもしれない。ただ、ある時、その技術の限界点みたいなものを逸脱してしまう魂が出てきます。多くは奇矯な魂。孤独な魂です。時代を作ってきた芸術的潮流をバッサリ切り落としてしまうような、当初は不気味な程に違和感のある「なにか」として出てくるものたち。
例えば19世紀のエドガー・アラン・ポーのような作家。不毛の荒野がまだまだ国土の大半だった19世紀中葉のアメリカにいきなり現れて、無理解のままに死んでいった天才。しかしその文学は、21世紀の現代でさえゴシック小説の孤高の極みとして輝いています。ポーの特徴は、一言で言えば、人間に対する恐ろしいほどの理解です。しかも、闇の側面。人の心が狂気に陥るとき、その狂気の輪郭を誰よりも微細に、誰よりも克明に描き出すことが出来る。19世紀中葉といえば、まだ世界は統合失調症も自己愛性人格障害や反社会性人格障害も発見されていなかった時代であり、それどころか「無意識」という言葉さえなかった時代です。でも、ポーはすでにそれらのことを熟知しているかのごとく、あらゆる人間の人格の破綻を描き出す。その手腕にはほとんど寒気を覚える程です。
かつてシェイクスピアは、ハムレットの中でこう言いました。「世界の箍(たが)が外れている!」と。まさしくその叫びは、シェイクスピア自身のことを指してもいます。16世紀のイギリスの作家の劇が、未だに英文学の最高峰に置かれていることこそ、シェイクスピアという存在が、同世代の規定する「たが」から遠く遠く外れていたかを示唆します。
崎山くんの音楽には、その様な天才たちと同じたぐいの感触を感じます。Radioheadのトム・ヨークがKid Aで試みたことを、13歳の少年がやってのけているんです。それはいわば、規格化されてしまった「音」と「声」を、その「たが」から外す行為とでも言えるでしょう。崎山くんがそういうことを意識してやっているかどうかはわかりません。勿論、意識しているのかもしれませんが、それより多分、誰よりも誠実に音と言葉に向き合った結果出てきた音であり言葉なんでしょう。我々平凡な人間が「最高でしかない!」とか「飲み会うぇーい」と、紋切り型の言葉で微細な感情を摩耗させている間に、「東から走る魔法の夜」の中で、「黒くて静かななにげない会話に刺されて今は痛いよ あなたが針に見えてしまって」と歌う。そんな言葉がこの世界にあったんだと、それを聴いた僕の心が針に刺されるのです。
一つのコードが持つ感情の揺れ、コード同士の繋がりがもたらす物語の連なり。そしてそれらを適切に具現化しようと、感情の輪郭を撫でるような言葉の痛々しいほどの美しさ、鋭さ。それらは、飽くことなくその音や言葉と向き合い、戯れ、没入すること無しには出てこないものです。コード進行のルールや、言葉の慣用的な繋がりを超えて、お互いが必要としているタイミングでまるで内在している磁力によって結び付けられるように、崎山くんの言葉は必然性を持って響き続けます。
なんて孤独なんだろう、と、僕は「五月雨」をはじめて聴いた時、泣きそうになりました。42歳の疲れ切ったおっさんが、16歳のまだ子どもとも言える青年の作った音楽に涙する。でもそれは不思議でもなんでもなくて、僕自身がかつてどこかで、鈍感さ故に落として消してしまった、16歳のときの悲しみと苦しみが、彼の曲のどこかに埋もれているからなんです。彼の音楽が世代を超えて色んな人に響くのは、そういうことなんだと思うんです。ギター一本という削ぎ落とされた音の中に、あらゆる魂が還ることの出来る空間が無限に広がっている。
彼の音楽を僕はこれからずっと見ていきたいとおもっています。彼が42歳になる頃には、僕は68歳。多分そろそろ命の終わりを意識する年頃です。その時まで、彼がどんな風に自分の音を展開するかを見られるというのは、本当に幸運だったと思うのです。
さて、そろそろ自分の仕事に戻る時間になりました。皆さん良い週末を。
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