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27年前に拒否したその手を今に繋ぎたい

地元の進学校と呼ばれる高校に行ってました。自慢ではなく、たまたま試験の日に調子が良くて入っただけで、中学の担任からは「絶対に落ちる」ってせせら笑われてたのが、逆フラグになってくれたのかもしれません。燃え盛る反逆心で最後の最後頑張って勉強して、その分が功を奏したのかもしれません。どっちにせよ、周りの誰も受かるなんて思ってなかった高校に入って、それで道を誤りました。天才とか秀才が山盛りいるようなところで、自分のような特別何も持ってない人間に何ができる?って、入って早々に諦めちゃった。そして不登校気味になったんです。

とはいえ、絶妙に「社会生活が破綻しないギリギリ」を意識するような、ある程度几帳面で計算高い所もあったので、不登校と言っても単位落とすほどの明白なヤバいやつではなく、病気やら仮病やら親族の不幸やらを総動員して、留年はしない程度には頑張る感じで高校3年間を過ごすことになります。高校のすぐ近くに琵琶湖があったので、その頃僕は、学校に行くふりをしてよく琵琶湖のそばでギターを弾いてました。補導っぽい職員さんもたまに見かけたけど、基本的に不登校の子って、琵琶湖のほとりなんていうのんびりした健康的なところにはあまりいかないし、サボる時には私服に着替えてるので、見つかって連れ戻されるみたいな修羅場にはならず、3年間琵琶湖の沿岸を自転車乗ってほっつき回ったのが僕の高校時代の主たる記憶の一つです。

ここまでは前置き。

そんなもんだから、うまく高校のクラス内コミュニティに属することはできませんでした。かろうじて、軽音の部活に入ってた仲間たち、バンドメンバーたちとは仲良くやってましたが、クラスでは浮きがち。特に集団行動が必要な行事だと、何をやればいいのかもよくわからず、ずいぶん困惑したものです。

その困惑が、徐々に焦りとか苛立ちを僕の中に呼び、そして最後には身勝手な「疎外感」へと後々繋がっていったのでしょう。3年生の文化祭の時、小さな小さな事件が起こりました。当時のことを覚えてる人なんて、多分誰もいないはずです。表面上は何一つ起こらなかった、ほんの数秒のやりとりですから、あれから27年経った今、覚えているのは僕だけでしょう。それが起こったのは、文化祭の出し物を決める、放課後の集まりの時でした。

文化祭では、僕の所属していたバンドも演奏をすることになってたので、比較的その年の文化祭前後はよく学校に来てたのですが、それでも「クラスの催し物」にはほとんど関わることなく、僕はただバンドのことだけやってました。僕は2つバンドを掛け持ちしてて、一つはキーボードで、もう一つはギターボーカルで参加してたので、覚えることが山ほどあって、正直クラスの催し物に気を割いてる余裕が全然なかったんですね。それに加えて、そこまで僕は基本的にクラスに馴染めない、半不登校児だったので、友達もクラスにはおらず、それまでのクラス会議にもほとんど参加したことがなかった。

でもその日は、なぜか僕も会議に参加していて、ぼんやりと終わるのを待ってました。終わった後は、学校の地下室でバンドの練習が予定されてたので、時間潰しみたいな気分で座ってたのかもしれません。

「小さな事件」が起こったのはその時でした。会議が終わりかけの終盤、何か催し物のアイデア出しみたいな話をしている時だったと思います。クラスの女子が一人、僕のところに来て、素敵な笑顔を浮かべながらこんなことを言ったんです。

「別所くん、何かアイデアないかな?」

びっくりして、頭が真っ白になりました。そもそも僕は、クラスの中の幽霊みたいなもので、存在を把握されてることさえ意識してなかった。しかもクラス会議は終わりかけで、もうそろそろバンドの練習に行こうかなとかぼんやり思ってたところに、急に声をかけられたわけですから。

そんなタイミングで声をかけられて、僕は頭の中が真っ白になり、その次の瞬間に口から出たのは、今からでもその言葉をタイムリープして取り消したい言葉でした。

「クラスの催し物に必死になっても仕方ないやろ?」

嫌なやつ。

多分その瞬間の僕は、卑屈で嫌味な顔でそれを言ったはずです。でも僕はその時本当はすごく焦っていて、何かを言わなきゃと思ってて、しかも本当の本当は、そうやって声をかけてくれたことが嬉しくて、クラスの輪に入れてくれようとしたその気持ちが嬉しくて、それがあまりにも望外の喜びで全部が全部焦りになってしまって、コミュニケーションが苦手な僕の内面を真っ白にしてしまった。

そしてその焦りと、湧き上がってくる喜びに戸惑った気持ちを抑えつけるようにして口走ったのが、それまで勝手に蓄積してきた「疎外感」を、呪詛として吐き出す言葉でした。

しょうもないプライド。

素直に喜んで、「アイデア一緒に考えよか!」っていえば、僕の人生はそこで何か別の切替ポイントに入ったのかもしれない。僕はリア充にはなれないにせよ、その後自分の人生の可能性を何度も潰すことになる孤独癖は改善されたかもしれない。でも、僕はその可能性の全てを閉ざして、自分の内側に逃げ込み、ちっぽけなプライドを守るために、呪詛の言葉を外に撒き散らした。まるで「お前らなんて俺の世界には必要ないんだ」と他者を傷つけ、あたたかな厚意を貶めることで、自分の孤独の価値が上がるとでも誤解しているように。脆弱すぎる自我を直視することが、あの時の僕にはできなかった。

僕のその言葉を聞いた瞬間の、その女の子の顔が未だに記憶に焼き付いています。多分、勇気を出して僕に最大限の思いやりを示してくれた。文化祭っていう高校生にとって最大のイベント、しかも3年生の最後の文化祭の「輪」の中に入れずにいる僕を、なんとか輪の中に入れようという優しさから、声をかけてくれた。その必死の行為を、18歳の僕は、クソみたいなプライドと、自業自得の「疎外感」を理由に、踏みにじってしまった。女の子は最初「?」という顔をして、その次とても傷ついた悲しそうな顔をして、最後に、全て興味を失ったとでもいうように目から光が消えて、永遠に僕の前から去っていった。スローモーションで記憶に焼き付いている感情の変化。

多分あの子は覚えていない、27年前の出来事。

でも僕はそれをまだ覚えていて、時折思い出す。

思い出すんですよ。この性格が、その後の人生でも時折首をもたげて、自分を他者の存在から引き離してきたことを知っているから。そしてようやく傾向を直視して、それに向き合えるようになって以降は、同じ失敗を繰り返さないために。

この「人を遠ざけたがる傾向」は、僕の前半生の宿痾だったのですが、それを少しずつ克服した今は、誰かが自分に声をかけてくれたら「よっしゃ、やろう!」とできるだけ応えるようにしてます。もちろんキャパは無限じゃないし、そもそも僕はコミュニケーション苦手な方だから、全力で応えることができないこともたくさんあるけど、可能な限り。あの時、女の子が示してくれた勇気と優しさに僕は応えることができず、そのために僕は、大事な未来をいくつか失いました。今僕は40代で、それほど人生の時間が豊富に残ってるわけではありません。少ない機会をなるべく失いたくないんです。

このツイートを書いた時、頭にフラッシュバックしたのが、27年前のこの小さな事件でした。書いておけば、誰かを救うかもしれない。差し伸べられた手を取ることは、全然怖いことじゃないんやでと、若い人たちに。27年も無駄にせんでもね。

あるいは、いつものように、これは自己療養の試みなのかもしれません。まだ僕には「平原に還る象」は見えてこないけど、最近はぼんやりとその方向が見えてきたような気もします。


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