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25年前のセンター試験の2日後の話

先日テレビを付けると、「あの日の前日、何をしていたか覚えていますか?」という問いかけがいきなり耳に入りました。問いかけをしていたのは、60歳前後の男性、周りを囲んでいたのは小学生たちでした。

その後すぐに、「あの日」というのは、1995年の1月17日のことを指すということが分かりました。普通、25年も前の1月16日のことなんて誰も覚えてないと思うんですが、僕も含めて、あの年に17歳とか18歳とか19歳とかだった人の中には覚えている人も多いんじゃないかなと思うんです。

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1995年の1月16日は三連休の最終日でした。そして多くの高校3年生にとっては「登校日」になってたんではないでしょうか。僕の通っていた高校はそうでした。1月14日、15日がセンター試験で、16日はその自己採点と私立大学入試や二次試験に向けた、注意喚起のような日に当てられていました。

あの日のことをよく覚えています。次の日を全く予感させないような、穏やかな冬の晴れの一日でした。気温はすごく寒かったけど、みんなセンター試験を終えた安心感で、試験前のような張り詰めた感じはありませんでした。僕は窓際の席だったのですが、差し込んでくる冬の光が柔らかくて、今ならシャッターを切りたくなるような美しい光景でした。もちろん、思い出補正がかかってはいるけど、そういう穏やかな一日でした。

僕は自己採点をしながら、意外とミスってた数学に落胆しつつ、国語と英語が予想よりもいい感じに推移してたので、二次試験に向けてとりあえず一安心という感じの結果で、ちょっとだけ安心しました。当時良く一緒に遊んでいた友人二人も、わりと調子が良かったので、その勢いもあったのでしょう、17日に三人で遊ぶ約束をしました。その日だけしっかり遊び、後は二次試験に備えて集中して勉強しようとなりました。始発のJRに乗って大阪行こう、そんな約束だったと思います。始発に大阪に行って、どんな遊びができるのか今の僕にはわからないのですが、とにかくテンションが上りすぎて、丸一日の一瞬でも失いたくない、全部の時間を丸々遊び尽くして二次試験に挑みたい、そんな気持ちだったのかもしれません。

待ち合わせは地元のJRの駅でした。家を出てすぐ、それまでの人生で経験したことのないような強い揺れを感じました。僕は当時大津にいたので、震度は後に知ったのですが5だったと思います。家を出て5分ほどしたところだったので帰ろうかと思ったのですが、やがて揺れは収まったので、とりあえず駅に向かうことにしました。今ならすぐにスマホに「地震速報」が来るでしょうし、家族の誰かに電話するでしょうし、地震関連サイトやTwitterを見て情報収集するだろうと思います。

でも当時はまだインターネット自体がありませんでした。いや、一応開始していたとは思うんですが、それほど普及していませんでした。もちろんスマホなんて形さえ存在していない。だから何かあってもGoogleで調べることもできない時代です。ちょっと変な雰囲気を感じつつも、とりあえず遊びたくて駅まで意気揚々と向かったのを覚えてます。何せセンター試験が終わったんです。気分最高です。

駅についてびっくりしたのは、100人近くの出勤前の大人たちが、駅にも入れず駅前の広場で屯していたことでした。それは端的に異様な光景です。何があったんだろう?不思議に思って駅を覗くと、改札のところに「大阪方面 全線停止」の張り紙が。詳しい情報が無く戸惑っていると、友人が到着しました。そしてようやく、何があったのかを彼から聞きます。何やらすごい地震があって、大阪がえらいことになったらしいと。今日は諦めよう、彼は残念そうにそう言いました。

確かに、駅には後から後から人がやってきますが、電車が動く気配はまったくありません。折角の予定が台無しになり、肩を落として帰りました。その時僕は、まだ事態の巨大さを全く把握してませんでした。

あのときの周りの大人達の混乱と狼狽、不安な様子が強く印象に残っています。スマートフォンがない最後の時代に起きた大災害でした。

家に帰って、大阪と兵庫を襲った未曾有の震災のことを知ります。今より遅いとは言え、家に着いた時にはすでにテレビはその報道一色でした。父も母も仕事に行けず、家族でテレビをぼんやり見ていたのを覚えてます。親戚の何人かは、大阪に住んでいたのですが、電話をしても繋がりませんでした。

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センター試験が来ると、毎年この時のことを思い出します。自分自身のセンター試験、16日の登校日、窓から入る穏やかな冬の光、自己採点と少しの安心、それから大震災。大学受験の記憶は、畢竟、大震災の記憶でもあり、僕自身は大した被害を受けなかったにも関わらず、その2つは結び付いた記憶として残っています。

その理由は、僕らは多分、間一髪のところで地震を逃れたという意識があるからかもしれません。

あの日、もし地震が2時間ほど遅く発生してたら、多分僕らは意気揚々と電車に乗って大阪に行き、あの震災に巻き込まれていました。そうなれば無事では済まなかったかもしれません。後に友だちになった神戸大学の学生は、同じセンター試験の二日後に被災し、そこで父親を亡くしました。その彼と一緒に、後に東遊園地の慰霊祭に行ったことを覚えています。普段は震災の影響の欠片さえ見せない彼が、その時ろうそくの炎を前にして涙を流していた姿は、20年以上経った今でも思い出すことができます。

その後、僕は大学の二次試験に失敗しました。インフルエンザに罹って、手も足も出ない状態でした。でも高熱にうなされながら、あまり残念とか後悔というような気持ちが湧いて来ることはありませんでした。もちろん、多少はあったのですが、どちらかというと妙に納得した気持ちだったんです。まるであの日助かったことの、ほんの僅かな代償を払ってるかのような、そんな感覚で天井を見ていました

人生を振り返ると、1995年のあの日は、自分も含めた多くの人の世界線を変えた1日だった気がします。それまで比較的平穏だった僕の人生も、その直後から、想像も出来ない嵐に見舞われるようになりました。

そして今なぜか僕は写真家になってます。カメラに本格的に触れたのは30も半ばになってからでした。

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つらつらと何を書いているかと言うと、この後、多くの若者たちが、試験の結果で、人生の一部分の決定がなされます。でも、その決定が望まぬものになってもならなくても、その後の人生において意味を持つのは、その後の行動次第なんですよね。当たり前なんですけど、でもたまにそれが見えなくなる。

僕はあの時失敗したけど、それが多分今につながる道になっています。ありふれた話なんですが、命を最大限に生きるという基準から見ると、大学の入学試験の合否それ自体は、それほど重い意味を持たないように思ってます。特に今の時代においては。引かれた路線を力強く歩むことだけが称賛された時代が終わりつつあります。おそらく25年前から、大きく変わったことの一つです。

とは言え、こういうことが分かるのはだいぶ後になってからなんですよね。高校生の人たちは、おそらくつかの間の休息のあと、これから控えている私立の試験や国立の二次試験に向けて、猛勉強をしている頃でしょう。僕の授業に来る学生たちも、今ごろどこかで勉強をしている。そしてその学生とは、この先、4月に会うことになる。

その出会いは、25年前、会えるはずだった人たちを、それと知らぬままに失った我々の過去を、少しずつでも贖うようなものであるはずなんです。それは一言で言えば、希望と呼ばれるものごとの一端を担っている、そんな風に思っています。

僕が写真家になった今でも大学の教員を続けている理由の一つは、こうやって4月を迎えるたびに、ありえないほど広い場所から集まった18歳の学生たちと、数奇な縁で巡り合うことができるという、その経験が得難いものであるからなんです。

冒頭で「あの日の前日、何をしていたか覚えていますか?」と問うていた方は、震災で小学生の息子さんを亡くされたお父さんでした。今は各地の小学校で講演をしながら、日々を生きることの大事さを子どもたちに伝えているそうです。このお父さんの気持ちがよく分かるんです。

僕らは日々を生きる中で、少しずつ失っている。最後に失うのは自分自身の命なんですが、時にはその過程で、自分の命より大事なものを失う可能性もたくさんある。でも、そんな喪失があっても、僕らは生きるという道を続けないといけない。時々それはすごくしんどくて、投げ出したくなるような経験もたくさんすることになる。そしていつかは僕らは本当にすべてを失うことになる。

だから、後に残す人たちに記憶を託す。死んでしまった人々の「生の記憶」を紡ぐことで、死が、「消滅」にならないように。生きた意味が存在するように。僕らはだから、何かを願い語る。そういうことではないかと思うんです。

25年前のことを思い出しつつ書いてみました。

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