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「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が僕らの心をこれほどまでに強く揺さぶるのは

結論から書きますね。それは、近年に稀に見る「ベタなストーリー」だからです。勿論これは批判ではありません。ベタというと、何かお決まりの定型のストーリーでお約束のクリシェの集合体のような物語を想像するかもしれませんが、今書いた「ベタ」とは「メタ」との対義として使っています。そしてこの15年ほど、アニメに限らず物語世界において勢力が強かったのは、明らかにメタの物語の方でした。そして僕ら自身が疲れ、ポストモダンの寒々しさが少ししんどく思えるこの2020年のコロナ時代において、極限まで丁寧に「ベタ」を描き切ったヴァイオレット・エヴァーガーデンの物語は、これまでメタな物語が「クリシェ」として冷笑的に切り捨てる傾向があった人間の感情の根源的な部分を繊細に丁寧に描き切ったからこそ、僕のような擦れっからしのメタ大好き人間でも、嗚咽で喉が詰まってしまうような物語になりえたわけです。

さて、ここから物語の中身に入ります。注意点ですが

1.僕はまだ10話までしか見てないんで、その後印象が変わる可能性があります
2.なので10話までのネタバレが含まれます
3.劇場版はまだ見てないので全く言及していません
4.なぜか『四畳半神話大系』の話が少し出てきます

以上、ネタバレなど気になさる方は、アニメを見られてから読んでいただければ嬉しいです。

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(1)対義語としてのメタ

ケーススタディとして、メタの典型例を出してみましょう。僕の大好きな小説の一つで、アニメ化もされている物語、『四畳半神話大系』などはどうでしょうか。この物語は、物語自体が「多層構造になっていること」を、読者に強く訴えかける構造になっています。小説内では四つの物語が語られますが、その物語の開始は全て、一言一句、同じ文章で始まります。こんなふうに。

 大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。
 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
 私とて誕生以来こんな有様だったわけではない。
 生後間もない頃の私は純粋無垢の権化であり、光源氏の赤子時代もかくやと思われる愛らしさ、邪念のかけらもないその笑顔は郷里の山野を愛の光で満たしたと言われる。それが今はどうであろう。鏡を眺めるたびに怒りに駆られる。なにゆえおまえはそんなことになってしまったのだ。これが現時点におけるおまえの総決算だというのか。
 まだ若いのだからと言う人もあろう。人間はいくらでも変わることができると。 (森見登美彦『四畳半神話大系』)

この文章から、全ての章が開始されます。一言一句、段落の改行さえ全く同じ。それぞれのページを見てみると、ちゃんと1文字目が全ての行で同じであることが確認できます。多分著者はこのページをちゃんと「コピペ」で書いたのですね、そしてそのことを意識させようとしている。「物語の外側や作者の意図を意識してくださいね!」という呼びかけです。そのことの意味は、小説自体が極めて技巧的に意識されたメディア媒体であるという宣言に他なりませんし、この小説は、読者に対して「小説を読むということはどういうことなのかを考えて欲しい」と訴えかけているということなんです。つまり小説を読む/書くという体験そのものが小説の核として機能しているということです。こういう小説や物語形式を「メタフィクション」と呼びます。小説の枠組み自体を意識させるような小説で、メタとはこの場合、「二次構造」とか「上部構造」とでも訳せばいいでしょうか。フィクションであるということを意識させ、その枠組みや「お約束」をあえてぶち壊していくことで、新しい表現領域を模索していくジャンルです。

20世紀に至るまでに、古今の作家たちはおよそ考えうる限りの物語パターンを試し切ってしまって、ベタなプロットでは書くことがほとんどなくなってきたところに、この「メタ」への意識が発生しました。「メタ領域」はいわば、物語が生成する秘密の場所のようなものです。かつては神様の領域にあったような秘密の花園は、ニーチェが「神が死んだ」と宣言した瞬間、不敬な小説家たちの野心的な実験場へと変貌した、と言えるのかもしれません。一気に物語の「新しい層」が発見され、そこから隆盛が始まるメタの物語は、21世紀に至ってはついに我々一般的な人間でさえ、それと知らずに楽しむような世界がやってきます。

例えば西尾維新の「化物語」シリーズもそうでしょうし、新世紀エヴァンゲリオンももちろんその一種です。物語内の人間が、「外側」を意識する全ての物語は、「メタ意識」を持っているということができます。メタの層は何重にも外に拡張できるがゆえに、その物語の展開は無限にあり得ます。こうして「単純なベタな物語」はどんどんと隅に追いやられ、高度に組み込まれたメタ意識を縦横無尽に使う「メタの物語」が、物語世界を支配するようになりました。(ものすごくざっくりなまとめです。もちろんメタフィクションはもっと古い時代にも存在しました。例えば17世紀の『ドン・キホーテ』も一種のメタフィクション ですし、18世紀のローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』も、すでに18世紀において出てしまった究極のメタフィクションといえます。が、それはそれとして)

でも、ちょっと疲れるんです。メタフィクションって。「メタ」の部分とされているものは、いわば作者の自意識です。そして作者は読者に対して、その作者の「メタ」へと参入するように呼びかける。でも時にあまりにもその技巧が優れすぎているが故に、僕らは物語を読んでいるというよりは、技巧に絡めとられているようなそんな気分になります。

そこにやってきたのが、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」でした。何一つメタが出てこない、一人の心を失った戦争孤児の女の子が、少佐の残した「あいしてる」の意味を、手紙の代筆を通じて探求する物語。ね、こう書くとものすごくストレートでしょ。で、本当に直球どストレートの、そして繊細な物語なんです。

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(2)究極のベタとして

最初、僕はこのアニメを敬遠していました。最初にも書いたのですが、僕は割とメタな人間です。全ての物語構造をメタ領域から眺める癖がついてしまっています。文学研究者の悪い癖のようなものですが、これは職業柄、メタフィクションの方が語る部分が多いし、論文にもしやすいからなんです。そういう風になっちゃったんですね。それに対して「ベタっぽいストーリー」は、展開も読めていて、最初から結末がわかり切っている物語なので、あまり見る気になれない。ベタの究極はおそらくは「水戸黄門」なんでしょう。あれはあれで、ある意味「社会的メタフィクション」なんですが、というか現代においてはもはや「ネタ」として見られる傾向がありますが、まあでも一般的には「水戸黄門」はベタと言ってもいいでしょう。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も、その延長線上にあるんじゃないかと思ってたんです、見るまでは。

で、実際、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は「ベタな物語」でした。号泣必死の第7話も、慟哭が約束されている第10話も、実際開始30秒で物語の結末が見えます。究極のベタなんです、見え見えです。でもね、それは、たった23分に間に、ほんとうに丁寧に丁寧に描かれたベタなんです。一瞬でも手を抜けば、あの物語に宿っているアウラ(魂)が消え去り、寒々しい「お涙頂戴」へと堕す危険性を孕んでいるストーリーは、作者の繊細な言葉遣いと、そして京都アニメーションの至高の職人芸が合わさった時、究極のベタへと昇華します。それは第7話の湖の上をヴァイオレットが飛ぶシーンに集約されています。

第7話は娘を失った劇作家の物語です。もうね、この時点で設定がベタですよね。メタ作家なら、物語の中に死んだ娘を死んだまま登場させたりします、例えば高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』のように。でも「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はそういうメタ物語の持つ批評性は使わない。批評性は物語に深みを与えるんですが、一方において、物語自体を単なるツールへと格下げする傾向があります。プロットや展開は軽視されがちだからです。その「賢さ」に時に鼻白みます。(あ、『さようなら、ギャングたち』は違いますよ。バチバチに繊細なメタ小説です)

話を戻しましょう。第7話のクライマックスで、劇作家は書いている物語の結末を上手く見つけられず、ヴァイオレットに「向こうから歩いてきて欲しい」とお願いします。そして、娘がかつて劇作家に語った「湖の上の木の葉を歩く」という言葉を、思いついたように付け加えます。それをヴァイオレットがその言葉通りに表現するシーン、見た人は覚えているかと思います。あのシーンです。

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少しでも間違えば単なるお涙頂戴になりそうなこの湖のシーン、作画の美しさが際立っています。娘さんの遺した傘を持って飛び上がるヴァイオレットのふんわりした空気感、まるで高価な大口径レンズで撮影されたかのような背景の輝かしさとボケ、錦繍の秋を彩る紅葉の色彩、跳ねる水の生命力。たった数秒の間に描かれるこの世界の美しさは、病気で娘を失った父親の心に、一瞬だけでも過去の最も美しかった記憶を強く想起させるに十分なものです。そしてその美しさがあるが故に、失ってしまった存在の大切さが一層強く悲哀として前景化される。その全てを、僕ら視聴者も追体験します。一瞬でもしらけてしまえばダメなこのシーン、僕らは娘を失った父親の感情に寄り添うことができる。僕らもまた失ったものへの思いを馳せ、そしてその悲哀と同時に、愛する瞬間が山のようにあったことを思い出す。僕らの世界は、こんなにも美しかったのだと知ることができる。長く生きていれば生きているほど、僕らにもあった喪失の記憶と、その喪失より遥か前にあった愛すべき瞬間とが、同時にやってくる。そんな風に思えるんです。書いてて泣いちゃいます。

小説においては、究極的に「ことば」こそがもっとも大事なように、アニメにおいては作画が命です。京都アニメーションは物語の一番奥底にある感情へと沈んでいって、そのエッセンスの全てをわずかでも失わないように、作画を通じて表現しています。その誠実さが、「ベタな物語」をしらけさせることなく、魂を揺さぶるような表現へと帰結していると思うのです。

こんな風に作られているんです、このアニメは。メタの物語が持っている、斜めから世界をみるような絶望含みの冷笑は存在しません(勿論、それはそれで僕は刺激的だし大好きですよ)。まっすぐに、真正面から、この世界はまだ美しいのだと。この世界は悲しみに満ちているけど、それでも愛が存在するのだと、真剣に語ろうとしている。その誠実なベタさが、僕らの心を強く揺さぶるんです。このコロナの時代に。

(3)ベタとメタ、コロナ時代に前傾化する乗り越えられないもの

メタフィクションは、「物語の外側」や「フィクションのお約束」へ目配せしつつ、それを意識的に破壊することで物語の推進力を得るので、なんでもありな展開になりがちです。そのなんでもありの混乱を、作者が力技で、時に極限の技巧で組み伏せるのが、メタフィクションの醍醐味であり面白さです。そして謎や仕掛けも大量に含まれるために、ファンの間で解釈が広がり、その多様な解釈がまた物語自体の枠組みを広げていく、あたかも「物語生成の自動機械」のような様相を呈します。「新世紀エヴァンゲリオン」の考察が山のように生み出されるのも、それが原因です。でも、メタが乗り越えられないたった一つの「ベタ」があるんです。それは、僕らが死ぬということ。僕らはこの世界において、もっとも大事な人を失い、そして最後には自分自身を失うということ。これはいかに物語が拡張されても、最後には乗り越えられない悲しみであり真実です。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、その「愛するものの死」という、人間が乗り越えることのできない究極のベタを物語の核心に据え、そしてそれに真正面からこたえようとした物語なんです。

2019年から2020年にかけては「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はかなり注目されているように見えます。それは単純に劇場版の公開だったり、あるいは、口にするのも悲しいあの惨劇の影響で注目されているのではないと思っています。2020年、僕らの世界は、どうも難しい世界線に入り込みました。コロナの世界。すべてがコロナによって変わってしまいました。もう後戻りはできないこの世界においては、僕らはこれまで感じたことのないような感染症への不安、そして身近に迫る死の可能性に脅かされています。自分だけではなく、身近な人を失うことの不安。その世相が背景にある時、その悲しみや不安から目を逸らさずに直視した物語だからこそ、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」はこれほどに心を打つ物語として成立したのだと、そんな風に思っています。


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