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「一緒につくる」をどうやって生み出すか ~西川正『あそびの生まれる時』~

西川正『あそびの生まれる時 「お客様」時代の地域活動コーディネーション』ころから、2023年

2017年に出た『あそびの生まれる場所』の続編。
前著に引き続き、今回もとても面白い。

スタンスは、前著と同じ。「一緒につくる」をどうやって生み出していくか

本書、「一緒につくる」にならず機能不全に陥っている例がいろいろと出てくるのだが、この描写が見事。
例えば、こんな感じ。

システム化=市場経済によるサービスが生活のすみずみまで行き渡るにつれて、地域の活動も、誰かが誰かにサービスする、というスタイルが広がってきている。たとえば、PTAなどで、その年役員になった人が、役員ではない会員にヤキイモをふるまうという形式をよく目にする。しかし、これをしていると、役員以外の人、とくに前に役員をやったことがある人などは、「遅い」「小さい」「まずい」「高い」など消費者目線か、厳しい先輩の「チェック」目線になりがちだ。「私たちの時はこうだった」「今年はこれがない」「よそではこんなことをしているらしい、うちではやらないのか」と。現役役員さんたちは、こうした評価の目線をおそれて、落ち度がないようにと緊張する。そして、そんな一年間を過ごすと、「もうこりごり。地域の活動にはかかわりたくない」ということになる。そして、「私たちの代は、がまんしてやったのに」と、次年度の役員に厳しい目線を送るようになる。

p.30

多くの人が「このやり方、なんだかなあ」と思っているのにそれが再生産されていくメカニズムを捉えている。

しかも、本書が指摘する、人と人とのつながり方の問題は、地域の活動だけでなく、いろいろな組織で生じているもの。
先ほどの例も、大学や学会で持ち回り的にまわってくる役職で起こりそうな話だったが、他にも例えば、

「子どもは自然の中で育つのが本来だ」「自分の子どもだけではなく、他の子のことも考えるのは、大人としてあたりまえだ」などの言い方で、「正しさ」が前面に出ると、議論が「勝ち負け」になっていく。経験・実感のない保護者にとっては、「ただの押し付け」になる。

p.128

というのも、セリフを「『ごんぎつね』は○○という主題を押さえるのが本来の進め方だ」「算数のこの単元では○○から始めて△△にもっていくのがあたりまえだ」みたいなものに、「保護者」を「教師」に置き換えると、従来の学校での教師同士の「授業検討会」が抱えてきた課題そのままだ(それを克服するために、私は「対話型検討会」に取り組んできたわけだが)。
地域活動を起点にしつつのこの射程の広さが、圧巻。
(なお、「分断」の解消を目指し、「感動で、私たちはひとつに」をモットーに掲げていた東京五輪が、なぜ「残念な結果」になってしまったかについても、p.133-の「『俺の五輪』になってしまった理由」で分析している。)

文章そのものも、ユーモアを交えつつ、痛快。
(小学校のPTA活動にかかわるなかでの)

「この世界は動員とシキタリで成り立っていたのか」とその権威主義的、かつ柔軟性のない世界に本当に驚いた。

p.82

とか。
一方で、ストレートに刺してもくる。
(「全員参加」を上から呼びかけるやり方に対し)

自己責任社会の中で、一律に義務を課していく時、そこに生まれるのは共同性ではなく、孤立なのではないだろうか。

p.104

とか、

子どものために、といいながら、一方的に与え、指示し、点数をつけることで、子どもの今の時間を奪うことは、もう終わりにしたい。

p.292

とか。

また、活動のセンスにも、脱帽させられる。

コロナ禍に入って2020年末にzoomで行ったという、「オンラインサロン名曲喫茶もちより」(p.21)は、stay homeが求められる状況での、「ずっと顔を見合わせてしゃべる」というのとは異なる形でのゆるやかなつながり方として上手いなあ~と思うし、2021年11月に開いた、団地の高齢者に対して地元の中学生が「相談員」としてスマホの使い方の相談に乗るという、「中学生によるスマホ相談会」(p.150)も、「『毎日スマホばかりいじって』と怒られているであろう彼・彼女らに力を貸してもらえないか」(pp.151-2)というしつらえが、本当に上手い(あと、たとえ問題が解決しなかったとしても、帰り際には互いに笑顔で手を振っていたというエピソードも、素敵)。

本書から、思わず感じた&考えさせられたこと、2点。

1つは、本書が手掛けようとしている問題は、本当にそこかしこで起こっているなあということ。
実は、つい先日も、「上が考えて上が決めて」スタイルで動く某組織がとある「連携」に失敗した様子を目にしたばかり。
周りにいくらでもこうした問題は転がっていて、私も、そこの人たち(ときに学生)とつながりながら多少の変革(の芽生え)を起こせているフィールドもあるが、一方で、「ちょっとそこまでは力が及ばない」とスルーしてしまっている(厳しく言えば、残念状況の再生産に加担してしまっている)領域もある。ちょっとずつ、が必要なのは分かってはいるけれど…。

もう1つは、本書がとても面白いがゆえに逆に突きつけられてしまう、多くの教育書のつまらなさ
現職教員や教育学者が出す教育関連の書籍や報告や研究発表。別に間違ったことは言ってない、が、つまらない、というものは、残念ながらとても多い(もちろん、そうでないものもたくさんあります!)。
それはおそらく、自分の言葉で文章を綴っていないから、どこかで誰かが「正しい」と言っていることに(おそらく多くの場合は無自覚的に)乗っかるかたちでしか述べられていないから、だろう。その「誰か」は、国、教育委員会の偉い人、大学の先生などいろいろあるわけだが。
一方、西川氏は、自分の違和感と感覚を頼りに活動を生み出し、それを自分の言葉で述べている(もちろん、文献を豊富に参照して自らの考えをよりクリアにしたり前進させたりということも行っているが)。だから面白い。
が、私にとって、文章を書くというのは、(西川氏の文章表現や図表化が秀逸なのは差し引くとしても)本来的にそういうものだ。
だとすると、そうではない文章があふれてしまっている、学校教育の世界とは何なのだろう。そのことに考えさせられた。


おまけ

前著『あそびの生まれる場所』のレビューもせっかくなので掲載しておきます(2018年11月2日のfacebook投稿の転載)。

* * *

西川正『あそびの生まれる場所 「お客様時代」の公共マネジメント』ころから、2017年

面白かったし思考が刺激された。

運営側と利用者側の間で壁ができ「あちら側」と「こちら側」にわかれると、どうしても互いに情報を開示しない方向になり、共につくるという雰囲気が施設内から失われていく……。

p.60

筆者はこれを「公共の施設の運営にかかわっている人なら「あるある」」としているが、おそらく、大学含め教育機関でも、また、教師-生徒(学生)という関係だけでなく管理職-一般教員の関係でも(さらに、一部の「リーダー的」生徒とそれ以外の生徒の関係でも)、おおいに起こっていることだろう。

「信頼関係」の大事さ。また、そもそも「信頼関係」とは何か。

筆者はそれを「人として話し合える存在だとお互いに思えている状態」と言う(p.222)。そして、「システムや規則が最優先になる場では、この感覚が薄れていく」と(p.223)。

これもよく分かる。学校での教師同士での会話でも、「○○と決められているので」「○○が正しいとされているので」のぶつけ合いでは互いに疲弊していく。私が取り組んでいる、授業検討会における、自分自身の「学び手感覚」を大事にしたやりとりというのも、ある種、この「人として話し合える存在」という感覚を土台に据えようとするものだと言えそうだ。

一方、とはいえ「システム」や「規則」は、だからといって不要になるものでもなく、むしろ、この「信頼関係」を促したりバックアップしたりすることに役立てられるべきはずだ。それはいったいどのようなものだろうか。また、そこでいう「システム」や「規則」とはそもそも何を表すのか。

人と人とがかかわる際の「わずらわしさ」を「こえていく原動力」。筆者は「本当に困ること」、「楽しさ、おもしろさ」の2種を挙げる(pp.271-272)。これもとてもしっくりくる。両者とも、感情が動く、という点で共通か。そしてこれも、形式的なグループワークとそうでないものとの違い、みたいな教室での学習者同士のかかわりを考えるうえでも示唆的だ。

そんなこんなで、ベースはコミュニティワークだが、学校や大学といった組織におけるスタッフ同士のかかわりにも、また、教室のなかでの出来事にも、引きつけて考えられる。むしろ、こうした一貫したつながり(一種の同型性!)があるからこそ、教室での子ども同士のかかわりや教師と子どもとのかかわりを問い直すことが大事なのだろう。それを学校のなかだけで、あるいは学習の観点だけで捉えていた自分の視野が狭かった。

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