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思考停止状態のなかで生き延びる道徳の読み物教材

先日学生が教職大学院での(実習校での授業に先立つ)模擬授業で扱っていて、初めて知った教材。
小4道徳、東京書籍の教科書に掲載された「全校遠足とカワセミ」。

あらすじは次の通り。

学校の遠足で公園へ。「おさむ」は、友達の「たけし」から、公園にはカワセミというきれいで珍しい鳥がいることを聞いていた。が、公園に着くと、進行役の6年生から、「大なわとおにごっこ」をすることが告げられ、「みんなでなかよく遊びましょう」「この公園は広いので自分勝手な行動をしないでください」と指示される。「おさむ」は、「たけし」から一緒に抜け出してカワセミを探しに行こうと誘われ、いったんは、「う、うん。わかった……。」と答えてしまっていたが、行きかけたところで、「やっぱりだめだよ。」と「思いきって」言う。やりとりと沈黙の末、「たけし」も「やっぱり、やめるか……。」と同意し、二人ともおにごっこに参加する。

この教材のテーマは「正しいと思うことは自信を持って」だそうだ。
手引きの

「木のかげからとび出し、思いきり走りだしたおさむは、なぜ気持ちがよかったのでしょうか」
「正しいはんだんで行動することができて、気持ちがよいと思ったことはありますか」

からもうかがえるように、カワセミ探しの提案を拒否した「おさむ」の行動を「正しい」ものとみなし、「正しい」ことをするのは「気持ちがよい」からそれを「自信を持って」行いましょう、とする構成のようだ。

私はこの教材が気持ち悪くて仕方ない。
もちろん、6年生のリーダーに断りなく抜け出してカワセミを見に行ったらまずいだろう。けれども、もし本当にそれが貴重な機会で、是非とも見に行きたいなら、6年生なり先生なりに相談したらいいんじゃないの? 実際、これが「百年に一度しか咲かない幻の花が開花中」とかなら、リーダーや先生に教えてあげるほうが親切そうだし。「大なわとおにごっこ」はおそらく他でもできるんだから。

指示されたことに対して、提案したり交渉したりすることもなく、ただそれに従うことを「正しい」とみなす。そしてそれを「自信を持って」行うことを推奨し、その根拠を「気持ちがよい」に見出す。
「民族浄化」をはじめとしたとんでもない犯罪行為は、しばしば、その実行者からは、まさに「正しい」と思って「自信を持って」行われてるんだけどな…。それと同じ図式に陥ってしまうことがもつ危険性は認識されていないのだろうか。

この教材の主眼は、「あいまいに返事をして」いた「おさむ」が葛藤の末「やっぱりだめだよ」に行き着くところにあるのだろう。こうした克己の重要性を教えたいであろうことは、一応理解できる。
けれども、この文章を道徳の教材として扱うときに、そこしか見えなくなって、先に私が疑問点として挙げたような部分が素通りされているなら、それはやはりおかしい。だって、そんなの教師側の都合でしかないのだから。

なんだかんだいって、他の教科の場合は、教科書であれ他の教材であれ、一応ちょっとずつ進歩してきたように思う。国語でだって、時代に合わなくなったということで、かつての定番教材が消えたりする。
が、道徳の教材って、なんでこんなに旧態依然のままなんだろう。
道徳教育の専門家も関心を持っている先生方もいっぱいいるはずなのに、なぜこうしたものが放置されたままなんだろう。
「道徳の教材だから」というだけの理由で、他の場面なら当然発揮されているような感覚や思考が、こうも働かなくなるものなのだろうか。
不思議でならない


【追記】道徳の教材や授業がもつおかしさについては、以前も書いていた。こちらも参考にどうぞ。


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