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「悲しそうに読もうと思います」「悲しそうに読めていてよかったと思います」でいいの!?

以下は、7年前に、今はなきfacebookのノート機能で書いた文章。当時、20件以上シェアされ、それなりに反響を呼んだ。先日訪れた学校で、ここで述べていたのとまさに同じ事態に遭遇し、この記事のことを思い出した。再掲しておく。


国語の授業において、物語や詩、古文などの音読表現の活動が行われることがある。
その際しばしば次のような形で発表が行われる。

  1. 発表者(グループ)が「工夫した点」を言う。

  2. 発表する。

  3. 「工夫した点」が伝わったか聞き手がチェックし、感想を伝える。

例えばこんな感じ。

発表者:前半は淡々と読んで、後半は悲しそうに読みたいと思います。
(発表)
聞き手:後半が悲しそうに読めていてよかったと思いました。

あるいはこんな感じ。

発表者:句読点でしっかり区切って、切り替わりが分かるように読みたいと思います。
(発表)
聞き手:句読点でちゃんと間を開けていて、よかったと思いました。

こうした形での発表とやりとりは、小中高問わず、しょっちゅう見かける。
また、国語の音読に限らず、演劇的手法を用いた発表や音楽の発表などでも同じ形が用いられる。
が、表現する/表現を受け止めるとはこういうことなのだろうか

落語家が話をする前に「○○の段は緊迫感のある部分なので畳みかけるように読もうと思います」などと言うだろうか。
詩人が自作朗読をする前に「○○の連から雰囲気が切り替わるのでそこから明るい調子で読もうと思います」などと言うだろうか。

そんなことをすれば、きっと聞き手は、「能書きはいいから早く聴かせてくれ」、「落語や詩の世界そのものを味わわせてくれ」などと思うだろう。

表現を受け止めるとは、まずなにより、声や身体などによって生みだされるイメージの世界にひたり、それを味わうことだろう。
また、表現するとは、そうした構えでいる聞き手に対してイメージの世界を生みだすべく働きかけることだろう。

事前に「工夫した点」を伝えておくようなやり方は、たいていの場合、こうした両者の関係を阻害する。
「悲しそうに読みたい」と聞かされることによって、聞き手はその観点からしか聞かなくなる。「『悲しそう』ができていればOK」という構えになってしまうのである。表現からどんなイメージが立ち現れてくるかを感じ分けることに意識を集中させるのではなく、聞き手が思う(観念的で記号的な) 「悲しそう」 になっているかにもっぱら意識を向けて聞く。
そうした構えの聞き手に対して、話し手はもはや、真剣にイメージの世界を作りだそうとはしなくなる。

にもかかわらず、学校でこうした形の発表が一般的であるのはなぜだろうか。
それはおそらく、表現というものを、計画の実行、つまり、計画に基づいて声や身体をコントロールすることによって一方向的につくられるものとして捉えており、計画の達成度が高ければ高いほど良い表現になると想定しているからだろう。
そこには、表現者の意図や計画を超えて現れ出てくるものがあるという可能性が排除されている。けれども、表現行為の本質はむしろこうした部分にあるはずだ。だいたい、表現を計画から一方向的に規定されるものと捉えるならば、わざわざ実際の表現の活動など行わなくても、その計画を口頭で伝える説明会でもやっておけばよいのだ。

「プロの表現者の世界ならいざしらず、学校で行う表現活動でそんな難しそうなことを言われても…」と感じる人もいるかもしれない。
けれどもここで述べていることはとてもシンプルなことであり、また、実践的にも十分具体化可能なことである。
一番大事なのは、(音読であれ演劇的手法による表現であれ) 「生みだされたものそのものを味わうことをまずは大事にしましょう」、「それが可能になる組み立てにしましょう」ということ。

例えば、「工夫した点」をあらかじめ聞いておいてその達成度をフィードバックすることなどよりも、まず、発表者の表現からどんなイメージが喚起されたかを率直に伝えることのほうが大切だ。

「……」の部分が、恐ろしいことが起こりそうな感じがして、聞いていてすごくドキドキした。

「……」の部分、雄大な海の様子を描いてるはずなのに、ちっちゃい海みたいに聞こえた。

といったことである。
こうした感想が聞き手から得られれば、話し手は、それをもとに自らの表現を変容させていくことができる。

もちろん、聞き手がこうした感想を述べるためには、表現にしっかり耳を傾けて(音読であれば目をつぶって聞くのも有効である)それが自分にとってどんなイメージをもたらすものであるか感じ分けなければならない。けれども、それを聞き手の側ができるようにすることこそが重要である。こうした構えをもつ聞き手に対して働きかけるという状況に置かれるだけで、一般的に、話し手の表現の仕方は全然違ったものにもなる。

なお、念のため述べておくと、発表者が聞き手に対して事前に何かを伝えておくことそのものがすべて、あるいは常にまずいわけではない。
例えば、何に挑戦しようとしているのかという表現行為そのものの文脈(例えば、「いかにも『悲しそう』な表現ではない形で悲しさを表現したい」など)を聞き手に伝えておくことは有効になりうるだろうし、また、通常であれば見逃されてしまいそうだけれども発表者の側からアピールしたい点があればそれを伝えておくということもありかもしれない。いずれにせよ、生みだされた表現を伝え手の側も受け手の側も経験するという大前提を押さえておくことが大切なのである。

表現に対するこうした発想の転換は、すでにこれまでにも提唱されてきた。
難波博孝さんの「劇音読」。(「「劇音読」のすすめー劇化の前にしてほしいこと」『月刊国語教育研究』第464号、pp.34-47、2010年。)
高尾隆さんの「パフォーマティブ・ラーニング」。(高尾隆、中原淳『インプロする組織』三省堂、2012年。)
また、私自身も、「プロセスとしての表現」、「まず動いてみて感じる」などの形で、これを訴えてきた。(「プロセスとしての表現 教育方法学の視点から」渡部淳、獲得型教育研究会編『教育におけるドラマ技法の探究 「学びの体系化」にむけて』明石書店、2014 年、pp.109-121、「動き、感じ、つくりだす媒体としてのからだ」教育科学研究会編『教育』 第 829 号、2015 年、pp.5-14。)

けれども、旧来型の表現観と指導方法はいまだに学校現場に根強い。しかも多くの場合それに疑問を持たれている気配もない。しつこく発信し続ける必要があると感じた次第。


以上が、2016年に書いたもの。
表現というものの捉え方については、その後、藤原由香里さんとの共著『なってみる学び』(時事通信出版局、2020年)にも書いた。

参考にしてもらえれば。

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