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何をその姿から学ぶか 〜大村はま『新編 教えるということ』

今日6月2日は大村はまの誕生日(1906年6月2日生、2005年4月17日98歳で没)ということで、某所で使うため『新編 教えるということ』(筑摩書房、1996年)を久しぶりに手に取ったついでにパラパラ眺めていたのだが、この本、熱烈な愛好者らと共に読み継がれてきただけあって、本当に吸引力がある。と同時にあらためてその先進性に気付かされる。

以下のような、一斉一律授業スタイルへの批判。

同じ教材、同じ方法、これがいちばんまずいと思います。スタートラインが一緒で、同じ教材で、同じ方法でしたら、同時にゴールにはいらないのが、あたりまえです。ですから、これがいちばん、劣等感だとか、優越感だとかをつくるでしょうし、劣等感や優越感は自分の成長を本気でみつめることの妨げになります。ほんとうの成長の喜びを得させられないことになります。

p.179

単なる形態としての一斉一律の否定ではなく、「劣等感や優越感は自分の成長を本気でみつめることの妨げにな」る、「ほんとうの成長の喜びを得させられない」と、子どもが抱く感覚への自らの洞察に基づいてこれを述べている。

次のは、今でいうところの「研究者としての教師」の提唱に重なる。

「研究」をしない教師は、「先生」ではないと思います。……なぜ、研究をしない教師は「先生」と思わないかと申しますと、子どもというのは、「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思うからです。……研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます。研究をせず、子どもと同じ世界にいない教師は、まず「先生」としては失格だと思います。

pp.27-28

研究している教師はその子どもたちと同じ世界にいます」にハッとさせられる。

大村はまは同じ教材を二度使うことがなかった、と伝説のようによく語られるが、それに関しては本書で次のように述べている。

同じ教材を私が使わなかったとか、そういう話はあります。けれども同じ教材を使うからいけないというふうに思っているわけではありません。ただ、同じ教材を私自身が、使いたくなかったから使わなかったのです。

p.215

かくあるべしでそうしていたのではなく、初めての教材で授業に臨むほうが自分自身心躍ったから、そういう自分の感覚に忠実だったから、結果としてそうなっただけ。
さすがだなあと思うし、そういうところにこそ大事な提起があるのだろうなあとも思う。

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