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その人の「存在」を感じること 〜「個」とは何か

知り合いの広島の先生が研究室に来訪(タイトル画像は、頂いた手土産)、15年ぶりくらいの再会を遂げて、話していたときのこと。
その先生、直接体験や架空の世界の体験(演劇的手法)を生活科その他の授業に組み入れることに取り組まれてきたのだが、その先生がおっしゃったのは、「(そうした活動では)子どもの個性が出やすい」ということ。

この感覚は私もよくわかる。
以前、午前座学・午後演劇ワークショップみたいな形の集中講義を受けもっていたときに感じたことは、動く活動のほうが圧倒的に学生個々人の区別がつきやすい、顔と名前を一致させやすい、ということだった。

オープンスペースで身体を動かす活動をしているときのほうが、学生の「」が現れる。
ここでの「」とは、別にたいそうなものではない。
例えば、円のなかを次々相手を決めて歩いていく活動をしているときに現れるような、歩き方の癖、おずおず歩くとかバタバタ歩くとか急ぎ足とか、あるいは、相手を決めるときのちょっとした挙動、間髪なく決めるとか迷いがちとか。
こうした身のこなし、ささいな違いではあるのだが、けれどもそれぞれの違いは確然としてあるし、また、おそらくそれがその人らしさのある一面を表してもいる。せっかちだとか、優柔不断だとか。
こうした「個」の顕在化は、教師である私にとってもそうだが、学生相互にとってもおそらく同様だ。だからこうした活動は、それぞれのちょっとした違いを、また、そうした違いをもつ「個」を、互いに受け止め合う時間にもなる。

今述べてきたような「個」は、おそらく、最近教育界を賑わせている「個別最適な学び」での「個」のイメージとは、かなり異なるものだろう。「個別最適な学び」、特に、経産省系の「個別最適化された学び」の流れを汲むものでは、例えば典型的には、タブレット上の教材がログとして記録し分析データとして表示するような、A児は○○の学習はどこそこまで進んでいて、正答率は○/○、間違えた問題は○○で、といったものが、「個」の違いとして想定されている。いわば、量的パラメータの集合体としての「個」。 一方、先ほどのような活動を通して浮かびあがってくるのは、一見あまり大事なものに見えないかもしれないが、けれどもその人の存在感と結びついた、その意味でかけがえのなさをもった、「個」。 これはちょうど、鹿毛雅治氏が『教育方法51』において、「個人差の束」としてではない、「トータルな統合体」として「個」を捉える必要性を訴えていたのと重なる話だ。

もちろん、端末に蓄積されるデジタルデータの活用自体を否定するつもりはない。実際、学習進度の把握といったことは、今までも教師はアナログなやり方で、手元の表なりシールを貼るカードなりでしばしば行っていたことだ。ただ、デジタルデータとなると、なまじそれが網羅的な記録や精緻化(手書きの各ストロークごとの所要時間だって記録・分析できる)を志向するものであるがゆえに、そうやって計測し表示できるものが「個」なのだ、という転倒が起きやすくなる。そこに問題がある。アナログなやり方で行っていたときには、それがすべてだなどとは思わず、教師が子ども一人一人の姿に思いを馳せ、それぞれの人となりを受け止めることを大事にしようとしていたはずなのに。デジタルデータの利便性は、むしろ、教師が見逃してしまうところを可視化するというように、補完的な形で役立てられるべきものだろう。

その人の「存在」を感じること。「個」の問題を考えるうえで土台にしたい。

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