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「インクルーシブ」を学ぶうえでの難しさ

研究仲間との雑談のなかで「インクルーシブ」の扱いの難しさが話題にのぼった。おおよそこんな話。

インクルーシブ教育」や「インクルーシブな学級づくり」を学びたいとか研究テーマにしたいとかいう学生が増えている。
こうした関心をもつ学生が増えたのは喜ばしいこと。
が、こうした内容を学んだり研究したりするのは、実はけっこう難しい。

1つには、個別領域と領域横断との衝突
「インクルーシブ」には、「障害をもつ子ども」とか「外国にルーツをもつ子ども」とか別個に切り離すのではなく、どの子にとっても安心できる&力を発揮できる場に、という発想がある。それはたしかに大事。
が、一方で、具体的な場面においては、さまざまな障害種別やら外国ルーツやら性の多様性やら個別領域で積み重ねられてきた知見をもっておくことは有用だ。「こういう障害をもっている場合に、こういう点でのしんどさを抱えることが多いから、こうした対応が大事」みたいな。こうした、領域ごとの内容を知ろうとすることなく「インクルーシブ」を理念としてのみ唱えても、おそらくインクルーシブには近づけない。しかし一方で、例えば、性の多様性のことを学び始めたら、それだけで一大領域だから、障害のこととか外国ルーツのこととか他とまたがって考えていく視点が退きがちになる。

もう1つには、理想と現実との衝突
理念として「どの子にとっても」を説くことはできても、それを実践していく際には、教師は現実的制約のなかでさまざまな折り合いをつけていかなければならない。領域ごとの知見だって、一人の教師が全領域にわたってもっておくことは不可能だ。いや、むしろ、教師自身にも理解不足やら偏見やらいろいろあって、それでも個々の人間へのリスペクトをもちつつ、子どもや保護者や他の教師とも対話しながらなんとかできることをやっていく、という営みそのものに、インクルーシブらしさはあるはず。けれども、時として、「インクルーシブ教育」や「インクルーシブな学級づくり」をめぐるオフィシャルな語りからは、そうした部分が抜け落ちてしまう。

個別領域のことを見つつ、いかに領域横断の視点を失わずにいるか。
理想を頭に置きつつ、そうはならない現実をただ否定するのではなく、現実的格闘にいかに価値を見出していけるか。
そうやって「インクルーシブ」を学ぶ/研究する。
いやあ、難しい。

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