見出し画像

実践研究における、概念のつまみ食いと消費を避けるために

例えば、SNSの「フォロワー」や「バズる」などの用語について説明するときに、「追従者」「賑やかになる」などと一般的な意味に置き換えても的外れだし、「誰かの発信を追うよう登録した人のこと」「支持や拡散の反応が得られて発言が爆発的に広まること」のように多少詳しくしたところで、SNSそのものの理解が伴っていない場合には、やはり意味をなさないだろう。
つまり、「フォロワー」や「バズる」について述べたいならば、SNSがどんな仕組みをもつものなのか押さえる必要があるし、また、SNSがそれまでのメディアとは異なるどんな特徴があるのかもふまえる必要がある。
そうした全体像や文脈への理解なしに、「フォロワー」=「誰かの発信を追うよう登録した人のこと」といった字義的な理解だけもって、「フォロワー」について述べたり、ましてやそれを別のところに転用しようとしたりしても、見当違いもはなはだしいことになるだろう。

なんでこんなことをわざわざ言っているのかというと。

これと同様のことが、教職大学院とか学会発表とかで見かける実践研究において、頻発しているように思われるからだ。
最初にちょっと目新しい感じの概念を引っ張ってきて、それを活かしたと称する実践をおこない、それにこんな効果があったと述べる。「ちょっと目新しい感じの概念」は、ブルーナーの「スキャフォールディング」とかビースタの「主体化」とかアイズナーの「鑑識眼」とか、そんな感じのだ。

けれども、その概念の理解がつまみ食い的なものになっている。ちょうど、SNSの仕組みや位置付けも押さえないまま「フォロワー」=「誰かの発信を追うよう登録した人のこと」と字面の理解で「フォロワー」について述べてしまう場合のように。

そのため、その概念を使う必然性も、使ったからこそ可能になったことも不明のまま、ただ、見かけ上は「それっぽい研究」ができあがる。「その概念を使わなくても同じようなことができますやん/言えますやん」的なやつだ。そうした場合、その概念が本来持っていた問題提起性は失われ、厳しい言い方をすれば、ただ「箔付け」のために用いられる状態になる。そうやって、その概念はチープなものになり、「消費」されていく。

概念は、単独ではなく、概念体系のなかに存在する。アイズナーの「鑑識眼」が、アイズナーによる「教育批評」とか「アート」とかの用語との関係のなかで存在するように。
また、概念は、もともと、ある文脈のもとでなんらかの問題提起をするために生み出されている。アイズナーの「鑑識眼」が、量的評価への批判という文脈のなかで提起されているように。
ある論者のある概念を参照するのであれば、そうした、概念の全体像とか文脈とかを押さえておこなってほしい。無藤隆氏の言い方を借りるなら、「その概念の重み」をきちんと受け止めてほしい。

これは別に、こうした実践研究に臨む人も、文献研究を専門とする職業的研究者と同レベルの精緻な読解をすべきだ、と求めるものではない。
むしろ、実践者ならでは可能になる読みというのもあるのであり(小松佳代子氏によるアーティストならでは読みの議論に触れたこちらを参照)、それを積極的に活かしてほしい。また、創造的誤読だって起こったらいい(ヴィゴツキーなんて、どれだけ創造的に読まれてきたか!)。
ただ、少なくとも、その概念のエッセンスというか、その概念が何に挑もうとしたものであるかはつかまえてほしい。

うーん、これって何なんだろうな。
この部分をサクッと乗り越えていく人もいれば、同じようなこと、つまり、概念のつまみ食い的参照と消費を繰り返す人もいる。読む量? 読み方? センス? トレーニングの有無? 難しいなあと思わされる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?