研究を進めるうえで教師が/アーティストが文献を読むということ
実践者(教師)当人が行う実践研究において、文献読解をどのように位置づけるか。
教職大学院で現職院生を指導していて難しさを感じるのが、文献の読みにかかわること。
院生らが教職大学院の課題研究のために文献を読んだり引用したりする際、つまみ食い的に自分の都合がよいものだけ引っ張ってきたり、その文献の文脈をふまえず的外れな切り取り方をしたり、単なる箔付け(こんなえらい人も言っている、的な)のために用いたりすることがしばしばある。また、文献の読み合わせを行うときでも、文章の字面に対して「こんなの知ってる」「私もこんな経験した」を出し合うことに終始してしまう場合もある。
これに対して、それとは違う、論の流れを押さえ、著者による議論をくぐったうえで何が見えてくるかを模索するような読み方を、私は院生らに求めてきた。
その際、私の場合はもちろん、自分が研究者養成の大学院で受けてきたアカデミックな読解のトレーニングがベースにあるわけだが、必ずしも、それとまったく同じことを目指すわけではない。
学術書を詳細かつ丹念に読む研究者と同一のふるまいを求めてもどうしてもその縮小版にしかならないだろうし、逆に、実践者だからこそ可能になる読みもきっとあってそれを大事にしてほしいとも思っているからだ。
けれどもそうした読みのことをどのように表現できるかなあ…と思っていたら、小松佳代子氏が『アートベース・リサーチの可能性 制作・研究・教育をつなぐ』(勁草書房、2023年)で述べていることが参考になった。
アートベース・リサーチを行うアーティストの共通点として述べている、以下の部分。
ここの「制作」という用語を「実践」に置き換え、他にもいくつかの用語を差し替えると、教師による実践研究の場合にも通じるように思う。こんな感じ。
先に文献(行政文書や学者の書いたもの)があってそれに従属するような形で実践が行われるような実践研究でもなく、また、自分の実践が絶対的なものとして先に位置していてそれの正当化のために文献がつまみ食い的に引っ張ってこられるような実践研究でもなく。
実践を進めることと文献を読むことが相互に響き合うような実践研究のあり方。
それは、アートベース・リサーチにおけるアート制作と文献読解との関係に近いように思われるのだ。
参考
本を読むことをめぐっては以下の2つの記事もどうぞ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?