悲願へ 21

 続きです。


 道徳について「道徳を他人に言う人は、全部が噓と思っていい。」、「道徳的なことを覚えたとしたら、自分に対してやる人が真の道徳家だ。」とありました。どこまでも道徳に対峙する人間に厳しいです。そこで、例えとして広田弘毅が登場しました。広田は中学生になるとき、父親から「論語」を貰ったのだそうです。その「論語」を毎日寝る前に三十分ずつ、一生涯読み続け、処刑の前日も読んでいたそうです。その広田ですが、論語を家族に語ったことがないのだそうです。道徳を教えるのは生き方であり、親は子に、自分の生きる背中を見せるべきだということです。うーん、社員にどう指導して良いやら、物凄く難しくなって来ましたが、「私はこう生きる、と言っているだけで、あとは、他社がどうするのか分からない。」ともありました。「私はこう生きる。だからこうしろ」みたいなことはダメですが、「こう生きる」、「こう仕事に取り組む」というところは言っても良いのかもしれません。ただ、自分でできもしないことを口に出して他者にやれと言っても誰も聞いてくれないということなのかもしれません。


 質問が変わり、「平和」に戻ります。「世界市民」なんて言う言葉や「話し合えば分かる」なんて言う考え方は正しいのか、それとも、世界市民という言葉を使う日本人は、日本人であるという自意識に欠けるのかという質問でした。著者は「世界市民なんて、言葉自体がもう間違っている。」と一刀両断です。「日本民族」という言い方も無責任で、民族の生き方は自己、家族、地域といった自分の目の届く範囲くらいのもので、その範囲で自分の思想を実行するのが一番重要とのことでした。「一番小さい自分の考え方、つまり自分の原体験が、ゆりかごから垂直にずうっと来た。今の自分の人生に原点がなくてはならないんだ。それと自分の家系。そこからきた本当の血の中の思想を、今度は逆にどこまで広げられるかが問題だと思う。」とありました。「自分の目の届く範囲くらいのもの」とありましたが、「どこまで広げられるか」ともありました。大ぶろしきを広げ過ぎても、目が届かなければ意味がありませんが、目が届く範囲を、少しずつでも広げていくことが大切と解釈しました。


 第一部の終了まで、あと4、5回かかりそうです。

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