関東大震災 2

 昨日の続きです。

 そうした状態も何とか落ち着き、復興へ向けて遺体やがれきの処理やバラック小屋を建てるなどといった作業が始まります。しかしながら、遺体やがれきだけでなく、人の糞尿の処理も大変だったようです。生き残ったか方々皆必死で、もうトイレなんて探している状態ではなく、誰かが見ていることも憚らず、そこら中で用を足していたとのことでした。また、遺体処理も大変な作業で、高額な日当を募集をかけると、トイレの汲み取り作業を行っている人がそちらに流れてしまい、更に糞尿の処理が後手に回ってしまったとのことでした。死体と汚物の話ばかりで読んでいて気が滅入るばかりでしたが、これも現代だから無いとは言えない現実ですから頭に入れておくに越したことはありません。

 また各国から救済の気運が高まり、9月10日にはアメリカ、イギリスが軍艦に食糧、木材、燃料等を満載して品川沖に到着、ヨーロッパ各国の船もそれに続きたそうです。また、アメリカでは二週間で八百万ドルもの募金が集まったともありました。そうした中で、当時の戒厳司令部は、ロシアからの救援物資は受け取ることを拒み、退去を指令したということです。それだけ社会主義運動を警戒していたのでしょう。今のザルみたいな入管とは比べ物になりません。

 大森博士は震災時、オーストラリアにいたのですが、体調不良を感じながらも任務を果たして10月に帰国します。地震が起きるといった今村助教授と、それによる騒ぎを鎮めた大森博士の間には溝ができており、大森博士は関東大震災について責任を感じていると発言します。また、体調不良は脳腫瘍だったため、死期を悟った大森博士は、今村助教授が関東大震災を予測したことについて評価し、自らの役職の後任に据えます。これにより二人の溝は埋まり、大森博士は「後藤子爵に、思い切った復興計画を立てるように伝えてくれ」と言い残します。後藤新平氏が復興大臣に就任したのは大森博士のお陰だったのですね。

 大森博士亡き後、第一人者となった今村ですが、「今度は大阪」みたいなことを言ってしまい、またしても同じような過ちを犯してしまいます。何をやってんだかと思いましたが、「今村は、生真面目な性格であり、一般庶民の心の動きをとらえることは不得手であった。」ともあり、自分とも重なるような感じがして、憎めないとともに、自嘲的な気持ちになりました。

 この後、後藤新平の本を探します。

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