R.I.P. 阿南準郎

 カープの元監督・阿南準郎氏が亡くなりました。私がプロ野球を見始めたのが1985年で、古葉監督の最終年でした。ベンチで見切れる古葉監督を観ることが出来たのは幸いでしたが、翌年、古葉監督の跡を継いで就任したのが阿南準郎氏でした。1985年は何をされていたのかなんて、小学生だった私は気にもしていませんでしたが、調べてみると守備走塁コーチだったようです。守備走塁コーチから監督に就任するというのもあまり聞いたことがありませんが、就任初年度の1986年に見事リーグ優勝を飾ってくれたのでした。

 その年の日本シリーズでは西武ライオンズと対戦、私の地元は所沢市と隣接している入間市だったので、何故かカープファンだった私はとってもアウェイでした。しかも引き分けから3連勝した後に、サヨナラ負けして更に3連敗ととっても劇的な負け方で日本一を逃したのでした。秋山幸二選手のバク宙ホームインもこのシリーズだったのですね。この辺りは1991年の日本シリーズと記憶が混同されています。この年限りで引退を表明していた山本浩二選手の花道を飾れなかったことから「浩二、すまん。チームのためにボロボロになるまでやってくれたのに、申し訳ない」と頭を下げて詫びたのだそうです。責任感の強さが感じられますね。山本浩二選手も腰を痛めていたと聞きますが、年齢も40歳になる年でしたから、他にも色々と故障を抱えていたのでしょう。しかしながら、そのぼろぼろになった最後のシーズン、山本浩二選手の成績は.276、27本塁打、78打点ですから、ちょっと訳が分かりません。

 阿南氏は大分県佐伯市出身で、佐伯鶴城高校からカープに入団しています。野村謙二郎氏、広瀬純氏の後輩なのですね。ルーキーイヤーからショートで起用され、内野のユーティリティプレイヤーとして重宝されたようです。現役時代を観ていたら、絶対ファンになっていたと思います。

 優勝自体は古葉監督の遺産と言われても仕方がないのかもしれませんが、その翌年は古葉氏が太陽ホエールズの監督に就任し、遺産を大量に引き抜かれましたが、それでもAクラスを維持して山本浩二監督につないでくれました。

全然関係ありませんが、その後、長渕剛ファンとなり、映画「オルゴール」を観たときに、主人公の勇次に扮する長渕剛が「阿南!!」と叫ぶのを観て、阿南監督を思い出しておりました。

 監督勇退後はフロント入りし、取締役育成部長、常務取締役球団本部長兼連盟担当、取締役相談役を歴任していますから、とても有能な方だったと側聞できます。選手としては地味ながら、プレイヤーからマネジメントまで広範囲に野球と携わった、野球人として素晴らしい人生だったと思います。ありがとうございました。R.I.P.

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