悲願へ 2



 昨日の続きです。

 PHP理念の解説に入る前に、松下幸之助について語ってくれました。「三つの特徴」として挙げられており1番目は「新しい人間観の提唱」という松下幸之助の文章にすべてあるとのこと。2番目は「高貴性」と「野蛮性」の両輪が完全に平衡をとって存在している人物であること。3番目は「宇宙=生命=文明」という三つの言葉の相関関係を同時並行でいるでも考えているということ。この三つが特徴だそうですが、全く雲をつかむような話です。

 「新しい人間観の提唱」は、それを大衆化した「新しい人間道の提唱」と共に巻末に資料として追加されていました。「新しい人間観の提唱」には、「人間には、この宇宙の動きに順応しつつ万物を支配する力が、その本性として与えられている。」とか「人間は万物の王者となり、その支配者となる。」なんて書かれています。私は個人的に「万物の霊長」なんていうことばがあまり好きではありません。人間なんてそんなに尊大なものなのか、それ以外の様々な生物との共存によって成り立っており、人間が霊長である確証などなければ、自分で霊長と言ってしまうほど情けないことはないと思っていたのですが、ここにも同様のことが書いてありました。これを咀嚼すればよいのかと思いましたが、「かかる人間の特性はは、自然の理法によって与えられた天命である。」とありました。そして先程の「人間は万物の王者となり、その支配者となる。」の前にも「この天命が与えられているために、」とつきます。「人間は、この天命に基づいて善悪を判断し、是非を定め、いっさいのものの存在理由を明らかにする。そしてなにものもかかる人間の判定を否定することはできない。まことに人間は崇高にして偉大な存在である。」ともありました。つまり「天命」なくして「万物の王者」でも「支配者」でも「崇高にして偉大な存在」でもないということでしょう。そう考えると余計に「万物の霊長」なんて言う言葉を使うことがはばかられます。

 松下幸之助の有名なエピソードで、電球を磨いている従業員に、「君、ええ仕事してるなぁ。この電球はどこで光っているか知っているか?(中略)子どもたちが絵本を読んでいると、外が暗くなって、家の中はもっと暗くなる。そうなれば、絵本を読むのを途中でやめなあかん。でもな、あんたが磨いている電球1個あるだけで、子どもたちは絵本を読むことを続けることができるんや。あんたは電球を磨いているんやないで。子どもたちの夢を磨いているんや。子どもたちの笑い声が聞こえてこんか?
物作りはな、物を作ってはあかん。物の先にある笑顔を想像できんかったら、物を作ったらあかんのやで。子どもたちの夢のために、日本中、世界中にこの電球をともそうや。」と語りかけたなんて言う話があります。そうした語り掛けで、松下幸之助は従業員に「天命」を説いていたのかもしれません。

さらに続きます。

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