藤原基央になることのない君へ
言葉にしないままで、心の奥の大事なところに隠したままで、時々中を覗き込んでは、日差しのもとに出してあげて、またしまって、そんな風にして一緒に育った気持ちがある。
結局、私は藤原基央になりたかったんだと思う。そう、今になって、いや今だからこそ強く思う。10代、20代と過ごしてきて、今30代の自分は人生のほとんどをBUMP OF CHICKENに影響を与えられ続けてきた。
晒され続けてきたと言ってもいい。私の場合は、彼に、彼らに音楽の扉の開き方を教えてもらった。世界の秘密とつながる方法を教えてもらった。
他にも、彼らの生き方、バンドのあり方、ファッション、髪型、そういうよくあるインフルエンサー的な影響が雨のように、真夏の日差しのように降り注ぐ中を、ずっと歩いてきた。
10代の頃は、彼の生み出す音楽が、世界が、何もかも真新しかった。そして優しく、激しく、私の世界を揺さぶり、世界の美しさみたいなものを教えてもらった。
文字通り、プレゼントを開ける前の気分を教えてくれたのは彼らだ。
今も思い出す、Happyのシークレットライブに参加しに六本木に行ったことを。
その時付き合っていた彼女は違う人と結婚して幸せになった。
ライブにまともに参加できたのは30代になってからだ。それまでは毎回抽選に申し込んで毎回外れた。
最初はなぜ行けないのかと憤りもあったが、次第にまあライブに行けなくても俺が多分1番好きだし、みたいなよくいるファンの1人でいられた。
熱がすっかり冷め、もはや日常になってからようやくライブに行けた。
久しぶりに見た生の彼らの音楽はやはり私にとって他のミュージシャンの音楽とは違った響き方をしていた。
藤原基央の作る世界、Bumpの音楽には、我々を共犯者(あえて、こんな言葉を使うのは大人に内緒でいたずらをするような感覚がどこかにあるからで、決して不届な思いから共犯という言葉を使っているわけではない)にする様々な仕掛けが施されている。彼らの音楽が我々の日常に驚くほど滑らかに潜り込んでくる最大の理由は、彼らが我々と同じものを見て、感じて、それらを用いて音楽を作っているからに他ならないと私は思う。
我々が知っている言葉で、我々が感じているような感じ方で世界を捉え、そこから少しだけ遠くにそっと紙飛行機を放り投げる。なんだかそんな気持ちにさせられる。
タイトルに戻る。
結局、私は藤原基央になりたかったのだと、今は強く思う。なんで今更そんなことを自覚して、こうして言語化するに至ったのか。もうその気持ちがなくなったという意味合いもあるし、その気持ちを捨てずに、大事にしまうこともなく、そう言う時期もあったなあと、他の気持ちや思い出たちと同じ棚に置いて眺めることができるようになったからだと思う。
10代、20代の頃は無意識下ではあったが、彼の影響が強く現れていた。音楽も、ファッションも間違いなくその影響下にあった。
しかし影響を受けること、受け続けることが必ずしも良い結果をもたらすことがないことを私は成長するに従って学んだ。
次第に私はここから離れなければと、藤原基央から離れなければいけないと思うようになっていた。今思うとなぜかはよく分からない。だが結局彼の、彼らの猿真似をしているだけでは自分の世界を作り出すことが出来ないことに気がついた。その必要があるのなどうかも分からないが、なぜか私は彼の後を追うことに疲れてしまった。
どこへ行っても彼の足跡があり、そして彼に憧れた人たちの足跡があった。
藤原基央という椅子に座ることができたのは他ならぬ藤原基央ただひとりで、他の誰にも彼の代わりになる人は存在しなかった。
日本の音楽は、特に今のロックバンドは、絶対にBumpの影響を受けている。
その影響を上手に使えている人、上手に使えていない人、使っていることに気づいていない人、とにかく彼らの歩いた道のあとを自分たちが歩いていることがとても辛くなった時期があった。
藤原基央が通ったと思わしき道をあえて外れようとしていた時期が確かにあった。
ところが、そっちへ行ってみると、今度はまたそういう「似たような」気持ちの人たちの背中が目についた。
藤原基央は私たちの日常を取り出して歌にすることができる。ところがその日常に、彼はいない。
結局のところ、私は自分の心を上手く扱えていなかっただけで、世界を自分自身で狭めていただけだったとある日気がついた。
その時、ほんの少しだけ楽にはなった。
自分は藤原基央ではない。仲良し4人組のバンドを作りたかったけど作れなかった。
外見も違う、声も違う。必死で真似をしてみたけど、なんだか違う。
作る曲の世界観もなんだかBUMPっぽい。
そんなひとつひとつが、憧れが呪いとなって自分の体中に巻き付いて、身動きが取れなくなっていたことに気がついてはいたものの、それを外してしまったらアイデンティティを失うことになる。そう思うと、別の道を行くのがただただ怖いと思った。
それでも自分の道を歩こう、そうしないときっともう取り返しがつかない。そう思いながらトボトボと私は歩き始めた。30歳を超えてからだ。長いモラトリアムが終わった。なんと時間がかかったことだろうと思うと同時に、遅いも早いもないとそう言い聞かせた。
気づけば藤原基央は結婚して、もうすぐ50歳が見えつつある年齢になっている。
きっと本人はとても幸せな人生を歩んでいるし、歩む権利がある。本当に沢山の人があなたの足跡の方向へと歩いてきた。
be thereと、ホームシック衛星2024には参加した。どちらも素晴らしいライブだった。
特にホームシック衛星は当時まだ高校生だった自分が行くことができなかったライブで、本当に心から行けてよかったと思ったライブだった。
ニューアルバムのiris、正直既発曲が多すぎて買う気がなかったが、私が新しいアルバムを気にしているのを大切な人が隣で見て買いなよ、一緒にライブ映像見ようよと言ってくれた。
私は得難い人生の中にいることを改めて自覚した。
藤原基央になるこのない君へ。
10代の君へ。そのままで大丈夫だから、そのまま歩いてみてほしい。
結局のところ、1人で歩き始めるために、彼らの曲が機能し、そして再び私は彼らの曲を聴いている。人生とは不思議なものだと思う。
追加公演が発表された。もし行けたら、1人ではなく、今度は2人でライブに行ってみたい。
とりとめもなく。