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ひきこもりおじいさん#93 青空

「・・・ごめんね、信ちゃん。私そろそろ戻らないと」
そう言って美幸が立ち上がった。
「なぁ美幸、なんで・・・なんで一言、相談してくれなかったんだよ。心配して電話してもまったく取り合ってくれないし、なんで」
弱々しい信之介の声が辺りに響いた。
「相談?信ちゃん、それ本気で言ってるの?」
突然、美幸が語気を強めて言い放った。
「信ちゃんはいつもそうじゃない!自分のしたい事やりたい事を優先して、他の人の事なんかこれっぽっちも考えてないのよ!花火大会の時だって、勝手に自分で行かないって決めちゃって、私に相談なんて一言もなかった。妊娠が分かった時もそう。私、何度も信ちゃんに相談しようとしたのよ。でも、いつも大切な事は後回しにして、真面目に取り合ってくれなかった・・・同棲して四年、そろそろ結婚だって正直考えたけど、このまま一緒にいて果たして私達幸せにになれるのかな。そんな漠然とした不安の中で、私いつも迷ってたのよ。でも信ちゃんは自分のやりたい事をやるだけで、私の事なんて見てなかった、考えてもいなかったのよ!だから私決めたの。この子はひとりで産んで、ひとりで育てようって!」
美幸の決然たる意志としての言葉だった。信之介は圧倒され言葉ひとつ出ない。いつの時代もいざという時の覚悟を決めた女性ほど、潔く強いものはない。
「私、信ちゃんには言って無かったけど、実家は幼い頃に両親が離婚してね、お母さんひとりに育てられたの。だからじゃないけど、私も妊娠が分かった時に部屋を出ようって決心がついたんだと思う・・・じゃあ、私この後用事があるから、もう行くね」
そう言い残すと美幸はベンチから離れていく。
「杉本さん!」
勢い隆史が美幸の後ろ姿に叫んだ。
「僕はあの夏の夜に、杉本さんが松田さんを想って言った言葉は、今でも嘘じゃないって信じてますから!確かにあの時の杉本さんの松田さんへの気持ちは偽りなんかじゃなかったと信じてますから!」
美幸はそんな隆史の言葉に少し躊躇するような反応を見せたが、怯むことなく真っ直ぐに歩いて行った。まるでその後ろ姿は自分の崇高な使命を全うしようとする高潔な闘士のようだった。一方、ベンチに残った信之介は魂を抜かれた人のように虚空を見つめ、呆然としていた。
「松田さん!良いんですか、このままで!今、追いかけなかったら、もう二度と杉本さんは戻って来ないですよ!松田さん!」
「・・・分かってるよ!そんな事は分かってるよ!」
そう叫んだ信之介は美幸の後を追いかけるように再び走り出した。
同じように隆史も走り出す。たが不意に思い止まると、その場で走るのを止めて信之介の後ろ姿を見送った。ここからは信之介と美幸の二人の問題だと思った。自分が出しゃばるより、二人で決断して二人で決めた方が良い。
相変わらず周囲では幼い子供達が、こんな喧騒を気にするでもなく歓声を上げて遊び続けている。隆史はその場で天空を仰ぎ見ると、雲ひとつない気持ちの良い青空が広がっているのに気付いた。そしてその青空の中におじいさんの顔を思い出そうとしたが、やっぱり上手く思い出せなかった。

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