ひきこもりおじいさん#59 精一杯の冒険
「ちょっと!大澤くんと松田くん、飲んでる?」
その時、唐突にマスターが大澤と信之介に声を掛けてきた。ボディービルダーを彷彿とさせるような上半身の筋肉と肩回りから両腕の筋肉にかけての盛り上がりは、黒いTシャツを着ると余計に強調されて見えた。一見すると若く見えるが、よく見ると人生の荒波に揉まれて苦渋を重ねたような表情からは、大澤や信之介より確実に年齢を重ねた風格が漂っている。どうやら長髪の女性とのお喋りが一段落したらしい。
「ごめんなさい。そういえばまだ何も頼んで無かったですね」
大澤が笑顔で答え、つられるように信之介と隆史もマスターに会釈をした。
「そうだよ、いつもなら来てすぐ注文するのにさ。あれ?いつもは見ない顔がいるけど・・・こちらは?」
マスターが隆史を見ながら言った。
「あの、前回飲みに来た時に話題になった、長野から来た島村隆史くんです」
咄嗟に信之介が言ってくれる。
「ああ!君がメモを見つけて東京に来た中学生か」
「はい」隆史が緊張した声で答える。
「ふたりから、ざっくりと事情は聞いてるけど、まだ中学生なのに凄い行動力だよね!僕が中学生の時なんかさ、こっそり親の金を拝借して、エロ本ひとつ買うのにビクビクしながらわざわざ知り合いの少ない隣町の本屋まで行くのが、精一杯の冒険だったのに。う~ん、時代は常に進んでるよ・・・」
ひとり勝手に青春時代を懐かしんで目を細めたマスターに、どう反応していいか分からない隆史は沈黙するしかなかった。
「マスター!大澤さんと俺はビール。隆史くんにはコーラを貰ってもいいですか?」
見かねた信之介が思わず声を掛けた。
「ああ、ごめん、ごめん。また勝手に妄想しちゃってたね。えっと、ビール二つに、コーラひとつね」
「はい、そうです」
「了解!ちょっと待ってて、すぐ持ってくるから。あれ?今日は美幸ちゃんは?」
「え?いや、美幸はその・・・」明らかに動揺した様子で信之介が口ごもる。
「マスター!美幸ちゃんは来ないですよ!最近は仕事が忙しいらしいので、な?」
「あ、はい。そうなんですよ」
意表を突いたマスターの問いかけにも、長年培った絶妙なタイミングで大澤が信之介をフォローする。
「・・・ああ、そうだ、そうだ。そうだったわ。そう言えば美幸ちゃん、最近仕事忙しいから来れないって言ってたね。忘れてた~ハハハ」
そう言って、何かを察したマスターが笑って誤魔化しながらカウンター席の奥に戻って行くと、隆史は何か形容しがたい空気が自分達の間に広がっている気がして、明日の事を考えつつも隣にいる信之介を不思議な感情で見つめたのだった。
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