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ひきこもりおじいさん#5 時刻表の松本行きの文字と空のビール瓶

ある年末も近い冬のある日。小学校から帰ってきた隆史は、居間でテレビを観ながら時間を潰していた。夕方も六時近くになると、隆史の家のある下西條もだんだん暗くなり始め、耳を澄ませば、近くの上ノ山の方からクラッカーを鳴らしたような動物避けの音が聞こえてくる。その音を合図にするように、暫くすると庭に広がっている敷き詰めた小石の砂利の上を滑るように車が入ってくる音と同時に軽トラックの唸るようなエンジン音が聞こえた。それは英子が仕事を終え、市内のスーパーで買い物をして帰ってきた隆史には聞き慣れた音だった。それから英子は夕飯の準備を始め、だいたい七時過ぎ頃には夕飯も出来た。
「紀、隆!ご飯の準備できたから、早く食べちゃって!」
英子が居間にいる紀之と隆史に声をかける。そして階段の下まで行き、
「おじいさん!ご飯できましたよ!」と二階の部屋にいるおじいさんに声をかけて、自らもテーブルに着いた。その英子の一連の動きと張りのある声は、隆史にとって食事前の見慣れた光景でありながら、日常という安心感を与えるものだった。ただ伸一は仕事で帰りが遅く、その日もその場にはいなかった。
先にテーブルに着いた隆史たち三人は、二階でおじいさんの動く物音を聞いたので、すぐに食事を始めず、おじいさんが降りて来るのを待っていた。こんな時、いつも隆史は二階の部屋でおじいさんは、いつも何をしているのだろうか?そんなふとした疑問と想像を繰り返していた。おじいさんの部屋はいつも閉ざされ、基本的に家族の誰も立ち入ることは無かったからだ。
家族が食事で使うテーブルは、一般的などこにでもある長方形のテーブルで、その短い辺の片側を壁につける形にして、上手から英子、隆史。下手に紀之、伸一。そして上座におじいさんが座るのが、テーブルを囲んだ時の家族のいつもの場所だった。隆史と紀之がいつもの場所に座り、英子が料理をテーブルに並べて、皆の茶碗にご飯をよそい終わると、おじいさんがゆっくりと部屋に入ってくる。
しかし隆史はおじいさんが部屋に入った瞬間から、なぜだか様子が少しいつもと違うと漠然と感じていた。ただ様子が違うと漠然と感じることは出来ても、それが何なのか具体的にはわからなかった。テーブルに盛られた料理や茶碗から湯気が立ち上り、ゆらゆらと不規則に動きながら天井に吸い込まれている。隆史はその湯気の動きを視界の端に捉え無意識で追いながら、それでもおじいさんから視線を外すことが出来なかった。
おじいさんがゆっくりとした動作でいつもの席の椅子に座る。隆史が自分の箸を持つ為に、僅かに視線を外した時だった。
「なんなんだよ、これは!」
その怒りとも叫びともとれるおじいさんの声とテーブルを両手で激しく叩く音が隆史の鼓膜に響いた。その怒声は隆史に英子の声とは正反対の非日常という現実を突きつけ、その場にいる全員が緊張のあまり、おじいさんを見つめたまま全ての動きを停止させた。張りつめた空気がその場を支配する。
「ちょっと、落ち着いて下さい!どうしたんですか?」
ようやく英子が言葉を発する。
「こういう硬いものは食べられないって、前から言ってるだろうが!何回言わせんだよ!」
おじいさんは、テーブルの皿の上に盛られている英子が買ってきたお総菜を指差し、顔は鬼のような形相になっている。普段のおじいさんからは、想像することが出来ないその豹変ぶりに、隆史だけでなく紀之や英子も圧倒されていた。部屋の空気がいつもより何倍も濃密になった気がして、隆史は息苦しさを感じ、はす向かいに座っている紀之の唾を飲み込む音が聞こえそうだった。そして紀之の真後ろの壁に貼ってある電車の時刻表の松本行きの文字が、何故かその場の雰囲気に不釣り合いなほど、ハッキリ見えた。
「ふざけんじゃねぇぞ!」
興奮したおじいさんが突如として立ち上がり、近くにあった空のビール瓶を手にとって振り上げ、英子を威嚇する。しかし、英子は意外なほど落ち着いた様子で、
「やめて下さい!警察呼びますよ!」
毅然とした態度と口調でおじいさんに言ったのだった。
おじいさんはそれでも隆史には理解出来ない言葉を発して怒りを爆発させていたけれど、動じない英子の姿に徐々に冷静になったのか、静かに波が引くように二階の部屋に戻っていった。いや、戻らざるを得なかった。
「おかあさん、何でおじいさん怒ってるの?」
少し間をおいてから隆史が英子に言った。
「そんなのわからないわよ!早くご飯食べなさい!」
「う、うん」
予想外の英子の反応に隆史が絞り出すことが出来たのは、その一言だけだった。そして、その場に残された三人は、食事を始めたけれど無言のままだった。隆史は今、目の前で起こった非日常的な出来事の影響をもろに受けて、食欲はあまり沸かなくなっていた。
一方で紀之は素早く食事を済ませると、何事も無かったように隣の居間でテレビをつけ、英子は台所で後片付けと洗い物を始めた。隆史はひとりテーブルに載っている自分の茶碗のご飯を見つめながら、ここまでの出来事を頭の中で反芻していた。隣の居間から聞こえてくるテレビの音が、まるで遥か彼方の宇宙から聞こえているようだった。

#小説 #おじいさん #夕方 #怒りと叫び #お総菜 #ビール瓶

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