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2021年は「良いところを見抜く目」を養うようなnoteを書きたいという話

※ すべての引用は、小林秀雄「批評」(初出:読売新聞1964年1月3日、出典:小林秀雄『考えるヒント 第3版』(文春ウェブ文庫版、2002))より。

 自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものではない事にはっきりと気付く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。

 2020年も終わりが近づき、締めに入った諸々の報告を聞いて、コメントをしたりアンケートを書いたりしている。こういうときにいつも悩むのだが、良いところを指摘した方がいいのか、足りないところを指摘した方がいいのか、という点である。「足りないところ」は目につきやすく、そしてそれを指摘することには一定の正当性があるようにも思えるため、何となく「足りないところ」を指摘してしまう。しかし、その後で「はて、足りないこと指摘して、どれほどの意味があったのだろうか?」とも考えることになる。

 指摘することの目的は、相手にさらなる行動を促すこと(今風に言えば「ナッジ」)だろう。「北風と太陽」の寓話が示唆的だが、相手にビュービュー風を吹き付けるよりも、暖かく照らしたほうが、実は相手の行動変容につながっているのではないだろうかとも思う。ただ、指摘する側としては、「照らす」方がずっとエネルギーを使うことになる。

 ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。

 発達に特徴をもつ子どもに対して、保護者(や周りの大人)がどのように関わるかを考える「ペアレント・トレーニング」では、「良い行動には反応しましょう」「悪い行動には反応しないようにしましょう」を原則としている。私がこれを実践するときになかなか難しいと思うのは、①やっぱり悪い行動に反応してしまう、②子どもの行動を分節化して「良い行動」を取り出しそれに着目することができない、という点である。この点、ちゃんとトレーニングをした人は、驚くべき「観察眼」によって、「子どもの良い行動」を見つけて、それに対して逐一フィードバックをしていく。そうすると、子どもはフィードバックをもらった「良い行動」を増やしていき、フィードバックをもらえなかった(無視された)「悪い行動」を減らしていく。すごいもんだねぇ。

 批評は、非難でも主張でもないが、また決して学問でも研究でもないだろう。それは、むしろ生活的教養に属するものだ。学問の援用を必要としてはいるが、悪く援用すればたちまち死んでしまう、そのような生きた教養に属するものだ。

 あまり継続的に取り組まなかったものの、2020年も何本かのnoteを書いてきた。それを振り返ると、ちゃんと「批評」できているものも(「批評」の試みになっているものも)、そうではないものもある。noteそれ自体としては「自分の考えていることを言語化する」ということで始めたものであるが、2021年は一歩二歩進んだものとしていきたい。

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