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平戸温泉むすめの否定に対し言いたい事がある

宗教が絡んでいるので言及を避けてたけど、乱暴な意見が多すぎるので言おうかなと思う。

まず宗教側の代弁的な言い方する人多すぎない?

そもそも温泉むすめは神様でしょ?

世界中で数多ある宗教性が盛り込まれた創作がある中で、この温泉むすめに集ってくる理由は一体何?

言いたいこと1

弾圧禁教があったからと言う人も多いけど、それを言うならそもそもそれが起きた理由は何なのか知らないわけがない。にも関わらず否定に掛かるのはどういう神経なんだ?

長い時間を経て「現地の神様がキリスト教を信仰している」という設定の創作が出来るようになった。その現実にある踏まえるべき重大な要素を全否定して踏みにじるわけ??
背景不明の「配慮せよ」が本当に意味がわからない。日本の宗教観も併さった創作の態度を、よくもここまで無配慮に否定できるなと思う。

宗教と人権として保たれる創作という文化は対立してない

物語は物語として理解する理性でお互いが共存する社会こそ大切であるとし、現地の文化を大切にして奴隷などというふざけた発想を否定できるような理性的な人達同士であれば、信仰する側も創作文化の範疇で創る側も穏やかに冷静に距離感を保てるでしょう。

それを宗教に無配慮として広め排除を求める人達はどういう神経しているのか。現地の文化や創作を創作として扱う理性を、宗教を掲げて全否定しているのはあなた方ではないのか。

ようやく数多の戦争を経て他文化と宗教が共存する社会になってきたこの時代でまさかの、排除と対立を煽る行為に私は本当に怒りを覚える。

宗教的な面に関して言えば、

いかに信仰を持ったとしてもその時代毎で新たに作られる優れたデザインや衣料品に、関心を持つ事は何もおかしな事ではないだろう。
なぜ宗教的な規範と比べられているのか。そういう意味でも批判側は冒涜していると思う。

冒頭の記事について

あと、この記事は温泉むすめを否定した上で現地を宣伝してるけど、宣伝記事として正直言って魅力あるものとは言えないよね。温泉むすめも宗教と文化の重大な要素も踏みにじっているからもう言っていいと思うけど、観光を応援する企画を全否定しておいてその宣伝部分の体たらくは何?

よく
>地元を代表するキャラを創り出すなら、複雑で奥深い、土地の魅力もしっかりと盛り込んでほしい。

などと上から目線で言えるものだと思う。何様のつもりなのだろうか。頭を抱えるレベルでわからない。

少なくとも書いている自分自身にこそまずそのコメントを向けるべきだと思う。誰もあなたのその配慮せよという指示命令に従うわけがない。説得力が無い。

言いたいこと2

そもそも穏やかに、無数の表現、この温泉むすめも含めて様々な表現があってしかるべきだ。その蓄積が文化としての魅力になるのだから。

温泉むすめを介して平戸に関心を持ち、宗教や歴史的出来事を知り、そして現地に訪れる事になった際に、和やかに温泉むすめの話がなされる場面が見られる。そういう状況こそ期待すべき展望ではないのか。

観光客が現地の信仰を持つ人と、笑いながら「あの温泉むすめはぶっ飛んでますね」なんて言い合えるような状況こそ平和ではないのか。

30年だぞ?たった30年の短い寿命の物語によくそれほどまで敵意を向けられるなと思う。

その正義感を満たすために他者の表現や理性的な距離感の破壊を求めて本当に嬉しいのか?

「宗教を」「配慮を」と叫んで、結局は歴史上の、初期の現地の文化も友好的な迎え入れも命もろとも全否定した出来事にあやかろうとでもしているのか?

一体無配慮な一連の言い募りが何を根拠に為されているのか聞いてみたいが、おそらくまともな返答は期待できないだろう。

私はいかなる宗教の信仰者も笑いながら話せるような状況こそ良いと思う。教義的に対立があったとしても、それも乗り越えてその場に平穏をもたらすのは人間の理性と相手に対する根本的な愛情だろう。

そこに宗教を題材にした創作物の作者が現れたとしたら、もう自分達人間という存在は呆れ果てるしかないのだと、まともさを持った人であれば行き着くものと思う。そして観光資源に関してとなれば、信仰は信仰、現地の振興は振興だとして異なる宗教や理念の人もお互いをもり立てる配慮をするのが人らしさではないのか?

それを外部の人間がここぞとばかりに「こんなふしだらで不謹慎なものがありますよ」と悪評をもって知らせる。

そもそも温泉むすめを知らない人に、悪評を込めて知らせてまわるのは名誉毀損だ。まともな神経をしている人なら誰もが眉をひそめる。

解釈も何も入らないそのままを目にする可能性まで踏みにじって何がしたいのか。本当に何がしたいのか。

目にしているわけでも無い人に悪評を込めてご注進をして反感を引き出そうとする、その神経は本当に何なのか。

宗教を語っていい精神なの?それは。

とにかく、数多の表現、数多の文化、それらは無数の出来事や信念や発想が背景となり彩られ形作られている。

それぞれは対立や迫害など誰も求めてはいない。生業の安定を含め穏やかさを求めた人達を肯定するものだったはずだ。
悲惨な事件を過去のものにできる人間性を、ようやく今発揮できる時代にはったはずではないのか。

あそこに異端がいますよ。あそこにあなたを馬鹿にする者がいますよ。

こういう事を言ってまわる、または広めるような輩こそ白い目でもって迎えるべきだ。そもそも聞く耳を持っても、力をもたせてもダメだ。

人の創作にまた文化に攻撃を加えない、営みを守ろうとする人こそ健全であり、そういう人達同士の健全な企画こそ尊ぶべきものだ。誰しもが肯定し得て、恩恵を受ける。

それを否定するのは悪評を広めて他者から反感を引き出そうとする人くらいだ。そういう人達は穏やかさや営みを守ろうとはしない。真逆へと皆を引き立てようとする。

だから創作する人達も冷静さを持って見ていた人達も観光をもり立てようとする人達も、温泉むすめを応援している人達も自信を持った方がいい。
あなた方こそまともだから

私から言われるまでもないと思われるかもしれないが。


新約聖書より

ローマ人への手紙 第一章29節〜32節

すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

旧約聖書より

箴言 11章12、13節

隣り人を侮る者は知恵がない、さとき人は口をつぐむ。
人のよしあしを言いあるく者は秘密をもらす、心の忠信なる者は事を隠す。

箴言 16章28節

偽る者は争いを起し、つげ口する者は親しい友を離れさせる。

箴言 20章19節

歩きまわって人のよしあしをいう者は秘密をもらす、くちびるを開いて歩く者と交わってはならない。

(引用元 ウィキソース ローマ人への手紙 箴言


おわりに

以上、引用させていただいたが、入信しているわけでもない私でさえ聖書から人として避けるべき振る舞いを、告げ口や讒言や人を見下すことなどを参照することができるのだ。
こういったものが普遍性のある警鐘と理解できることこそ、私達が宗教や信念が異なろうともお互いを尊重し、適切な距離感を保てる人間性を持っている証ではないのか。

こうした引用は信仰を持つ人からは嫌悪されるかもしれないが、私は宗教を傘に来て人を尊重せずいらぬいさかいを引き起こそうとする行為をおかしなことと思うし、虐げられる人を見過ごせるものでもない。毎日皆の幸せと平穏を祈っている迷信深い私でも、今回ばかりは古き聖人も私をお許しいただけるものと思いながら引用作業を行った。

これで地獄に行くというなら構わない。少しでも無用な反感や他者に対する見下しが防げたなら望むところだ。

そうなったら、反感や見下しを防いだ成果と名誉は聖人の教えに帰し、私は嫌悪を理由に地獄に落ちる。それでいいと思う。そういうものが筋ならそうなる他にない。



どうか宗教を理由にした争いを私達の生活にもたらさないでくれ。
どうかお願いだから。
平穏とありのままの私達の姿をその場に存在できるようにしておいてくれ。
誰かが人を罰する、誰かに人を罰させる、そういうのはもうたくさんだ。

どうかお願いだからそのままにしておいてくれ。人を嫌悪する理由を配り回らないでくれ。宗教を理由とした憎悪と他罰と否定と排除を歴史から私達の間に蘇らせようとしないでくれ。


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