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日本共産党の政策の件 問題点整理

はじめに

今回の件は思いも寄らない大きな反応をいただいた。それにしてもつたない文書やタイミングの悪さなど様々な面でご寛容をいただき恐縮しきりである。
そして、良い選挙につなげるための建設的な議論の、その材料に用いていただいた事に心から感謝を申し上げたい。

ひとつ話しておきたい事として、この話題の広まりの大きさが実はまだピンとこない点がある。というのもそれには2つ理由があるのだが、ひとつは議論が盛り上がっていた記事の引用ツイートや他サイトでの取り上げなど、私の目に届かない形のものが多かったのだ。もうひとつは数日間という非常に短い間にしては爆発的とも言える閲覧数があったにも関わらず、私への攻撃いわゆる「非難のための非難」がほぼ皆無だったためだ。この2つの理由から、確認と記事作成に必死になっていた私と、記事の反応の拡大具合を眺めていた方とで見えてきた印象は違うだろうと今現在感じている。電話担当の方が党内で責められたりしないか、それに配慮しながらいかに世間に問えば良いかという悩みに割くものは大きかった。
皆さんのご見解と、私が重要と思えた問題点やその根拠を近づけるためにも、個人的な感想を交えながら解説していきたい。

それといらぬお世話かもしれないが、選挙において大事なのは投票後である。
皆で注目する選挙だからこそ浮き彫りになる問題もあるのだ。良い事も悪い事も誤魔化されてはいけない。
誤魔化せるようなものではない、極めて重要な問題が今回明白になっており、私としては今後もある程度はこの件について向き合っていきたいと思っている。
今回の記事も、これまでと同じく皆さんの何かしらのお役に立てればと思いつつ書くものである。


話の発端はこちら。


「明らかに不完全」な政策

・政策への疑問から
政策に対する所感は、以前発表した記事も是非ご覧頂きたい。
結論を概観的に伝えるような表現になったところはあるが、実は相当分析と検証を重ね、その上で最重要項目を浮き彫りにした文章である。

「なぜ○○党には問わないのか」という疑問に対しては、その発言者にその党への質問(具体的に何についてかは分からないが)を任せるとして。
今回指摘した政策とはこちらの項目

7、女性とジェンダー(2021総選挙/日本共産党の政策)

その、法改正を前提とする「描写物」への規制政策に対してである。

立法府の選挙で掲げられた政策であり、また「描写物」は対象を広く含む言葉であるため、私は党へ電話質問をした。
その時の担当の回答は、始めはあくまでも「児童ポルノの定義変更の立法趣旨」と「非実在児童ポルノに対する社会的合意を高めていく」は別というものだった。
 しかし政策文は明らかに不思議な理論展開を見せている。

・児童ポルノの定義を「児童性虐待・性的搾取描写物」(※)に改める。
・(※)ここで言う「描写物」には、漫画やアニメなどは含みません
そして
・日本は、極端に暴力的な子どもポルノを描いた漫画やアニメ、CG、ビデオ、オンライン・ゲーム等の主要な制作国として国際的にも名指しされており、これらを適切に規制するためのより踏み込んだ対策を__
と続き、
社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて__
と結ぶのである。

これは論法的と言える。論法とは論理の展開の仕方、言い換えれば説得の手法である。
 ひとつ踏まえておくべきなのが、法律案とは極めて厳重に精査しなくてはならないという事だ。なぜなら、法律は私達全員が従わなければならないからである。
 私達の人権の制限に利用されないか、裏に何か目的があって出されたものでないか、そういった監視を最前線で行うのも議員の大事な役割である。
議員は私達の声を法律案にして出す(こちらが注目されがち)のと、同じレベルでおかしな法律案か監視する役目がある。
 そして党員が当選し議席を得るほど、政党発の法律案が通しやすくなる。選挙の大事さはここにある。


さて、今回の政策文その指摘された部分には、投げかけられて当然と言えるいくつかの疑問点がある。
 まず「なぜ『漫画やアニメを含まない』と言った直後に『漫画やアニメ(中略)を適切に規制するためのより踏み込んだ対策〜』と続いてるのか」という点だ。注意深く読んだ人はおそらくほぼ誰もが思うだろう。
 実在人物に関する規制は既に存在しているのだが、この案はその定義を変えると始まり、非実在人物の描写を誤った社会観念を広げるものと断定し、その規制に向けて社会的な合意をつくっていくという文面なのだ。

そこで私は前述の部分の確認を重ねた上で、「排除すべき表現」の概念をの具体性を尋ねたところ、このような回答が返ってきた。


この電話応答も踏まえ、次に党の正式な回答をメールで求めた。党という集団で見解を共有するその場面では具体的な例が挙げられているのではという確認である。音声部分に関する質問は主に次の2点。

・反論のための話や排除すべき表現の具体に、党内で「コミックマーケット」などのイベントが挙げられているのか。
・現状罪とはならない表現物や人を「排除対象」と見なしているのか。

それに対する回答が

・質問4の回答案(←原文ママ)
党はコミックマーケットなどの催しを「批判すべき表現」の対象として考えたことはない。むしろ応援している。

回答になっていないのだ。そして案を出してでも言い切ってはならない言葉が党に存在するのである。


前段がまた長くなってしまった。
次に、生じている問題を具体的に挙げていく。

・党員が必ず困る事になる政策


この政策文は上記の通り、「"非実在児童ポルノ"とは表現物が含まれるのではないか」「今現在罪とされていないものを罪として定めようとするものではないのか」といった疑問が投げかけられて当然のものである。
これでは党員が可哀想だと唸ったのだが、この経緯を経るにつれて、残念ながら思い直していくこととなる。
 なぜなら、党員に出された指示(注:「回答案」という事は上下下達の組織的判断がある)、あるいは共有されていたのは、法律案の具体性や「党内で罪なき人の表現物を問題としているのでは」といった市民の疑問や不安に対する共感ではなく、説得の論法だからだ。
 質問に対して論法で丸め込めと指示しているも同然である(何度も確認を重ねる中で、マルチ商法じゃないんだからと思わずつぶやく程だった)。
これまで政党が是としてきた理論と「ジェンダー」の理論との整合性を、十分に精査していないこともうかがわせる。これらの点から政策として不完全ではないかと言えるのである。
「この齟齬は市民とのふれあいの場面で解消せよ」と言われているも同然の状態のため、そこは党員の方々にやはり同情の念を覚える。指示を出した党の考えの無さへの怒りを禁じえない。
理論的整合性を捨てるのはいかがなものかと思う。

・この政策が引き起こす不安を読み切れていない

これは政党や党員の方に投げかけようと思ってはいたものの機会が無かった部分である。
この政策はコミケなどの同人誌出版に関わる印刷業、流通業、受取窓口の代行を行う小売業、更には展示会を行う日本の各分野にまで不安を引き起こすという指摘だ。

その理由としてはもしこの政策が通れば、関係する業種は必然的に「排除すべき表現」を扱うことにならないか怯えながら業務する事になる。同人誌を含む出版社とその流通等に関係する業種がまず危惧を覚えるものである。
取り扱いをした事による社会的な制裁で大きな経済的損失が起きかねない。それらは漠然としたものではなく、具体的な危険が明示されたも同然である。
吉良よし子参議の語った事とはこういう事を含んでいるのだ。

社会的合意を高めるというその手法には「不安の拡散」が手段の一つとされているのは否定のしようがない。
不安の拡散はコミケに代表される同人界隈だけでは留まらないのだ。

理由を簡単にまとめると2点。
・コミケを見ると分かりやすい。同人誌で扱われる内容と参加者の職業は日本の産業のほぼ全分野を網羅するものと言っても過言ではない。
 つまり、「この政策がどのような問題を引き起こすのか」という懸念自体拡散する力自体がそもそも尋常なものではないという事だ。
それを政策を考えた方々が想定していた様子は見受けられない。

・オリンピック時のビッグサイト使用不可問題を真っ先に問題視したのはコミケ参加者だった。その理由も「コミケが無くなるから」ではなく、展示会場使用不可によって引き起こされる重大な経済的損失(一兆円以上とも想定された)を危ぶんでの世論喚起だった。
(ちなみにこの辺りはコロナによる世界規模の経済への影響でうやむやになった感がある)
 党より掲げられた「社会的合意による排除」とは、現実的に考えれば頒布者だけでなく、展示場で行われる全てのイベント主催者や会場の所有者も共有することを意味する。「社会的合意」の言葉の持つ重みである。
会場を利用する各産業までも「政治的な介入の方針」に対する警戒を喚起する要素が政策のこの部分にはあったという事である。


「排除すべき表現とは何か」という疑問に、具体例の提示や再検討の態度ではなく「イベントの中にある」または「描写物」という単語を挙げて正当化せざるを得ない、それが選挙中に見られた反論であった。
 それは「警戒心を喚起してしまう」と気付く、あるいは警戒を食い止めるためにどうすればよいか。そこの検討にまで行き着く要素が始めから無かったのかもしれない。状況を見る限りそうだ。たとえ個人の党員が気づいたとしても困難なのである
 あらためて「社会的」という言葉の重みを考えさせられる。

 また都知事選に出馬をした者としても強く言わせていただきたい事がある。
社会的制裁による経済的損失の恐怖を煽って達成を見込む政策は、児戯という評価では済まない、悪質の類である。
 おそらく党内では、ここまで具体的に各分野の業務に対し発生する具体的影響と広がる不安を分析はしていなかったのだろう。もし読み切った上で出したものであれば更に悪質だと言わざるを得ない。
「人々または業務や経済的に混乱や不安を起こす」という手段を選んでいる事自体に倫理的問題がある。

・イベントに参加する党員への特別視

これは「特別待遇」という意味ではない。
日本共産党は国政政党という市民の活動に対し一定の権威性(議員を擁するため)を持つ存在である。その組織から提起されたものである以上、「表現・描写物」の判定の場面では内部の人間と外部の人間で違いが生じ得ることを意味する。判断に党が積極的に関わると表明されている事から見えてくることである。

 それは私達の日常の視点からどのように映るのかを考えるとわかりやすい。
まず現時点で「党外の人と党内の人とで評価基準が違うのでは」という疑念が生じることはお分かりいただけるだろう。
つづいて、党員や党に近しい方が「自分の表現は問題視されない」とか「自分は不安に思わない」と語っていた場合、周りにしてみれば「あなた方はいいのかもしれないが」という感想を抱くのも容易に想像できるものだ。それは政党や党員に、党が想定している社会的合意について尋ねた場合に返ってくる答えに対しても同じく抱くものである。
 そして大々的に「社会的合意」の提起があった以上、今後党員の方がイベントに出た際は「政党の判定基準をクリアして出てきている(あるいは秘密で出ている)のでは」という素朴な疑問も持たれかねない。
何度も書いている気がするが、こうした問題が党員に降り掛かることも省みない党の判断に非常に憤りを覚える。
 更には、イベントに来ている党員は何か調査をしているのではないかという疑念も起きかねない。
この辺りをひっくるめて私なりの言葉でまとめると「人権の平等性に基づき受け入れる市民の側の理性に、党は甘えているのではないか」となる。
 このように政党や党員に対する特別視が生じるのだ。

 これは今後必ず顕在化する問題である。コミケにいくら好意的な党員であっても発生する"疑い"である。
この原因は、整合性の取れない政策と本人の言葉の間にどうしても「裏があるのでは」と思わせる齟齬が生じてしまうからである。

個人の意志で参加するものになぜこうも問題を起こそうとするのか。

人間は政党や政治思想などを前提として生きる存在ではない。
人間が組織や思想などを扱うのである。
概念より下に人を置くとこうした問題が起こる(歴史的にもよく見られる。私の知る限り悲惨な結末が多い)。

発想の裏にある「女性蔑視思想」

これが最大の問題である。
これは現在、「表現規制」などワン・イシューでまとめられるような、または分かりやすく既にまとめられているものでは無い。そのため、一見分かりづらいものとは言える。概要は以下の記事にまとめてある。

何度も同じ事を繰り返し書くのも大変なので、↑この記事を読んでいただいていると期待しつつ話を進めたい。
今回の件を引き起こし、かつ今後これ以上の問題を引き起こし得る。そのような問題の原因が存在しているのだ。

全体を貫く問題の鍵となっているのが、最終的にそれぞれの問題発言(と言ってしまおう)に対する批判の矛先反らしとしても置かれている「女性」という言葉である。
 この作成の責任をなぜ党あるいは政策を担当した誰それと言えないのか。政策に向けられた批判への反論には常に女性という言葉が掲げられる。政策と発信者に向けられた批判は女性に対するものではない。

批判対象とされている表現の製作者も、また表現活動を支える様々な業種やファンに関しても女性の存在が念頭に置かれていない。
にも関わらず、懸念や疑問に「女性の被害を防ぎたくないのか」と軽々しくよく言えたものである。そもそもこれは罪なき表現の話なのだ。

現時点で世界的に共有されている漫画やアニメの表現は、女性の作家の作風の影響が極めて大きい。
 それは既に、性別を理由とした創作行為の制限や、描かれている人物が「性的かどうか」等の歴史上にも数多みられた弾圧の理屈などをとうに遥か彼方に飛び越えているものである

排除されるに至った女性表現者の悲しみなど想像も付かないのであろう。
時代がいくら変わたとしても、守ろうという気概は無いのだろうか。
男性同士の恋愛を描き懲役10年の実刑を受けている女性の存在を政党の方々が知らないわけがないのだ。
それでもあくまで「社会的合意だから」「女性の被害を防ごうと思わないのか」などと言い続けるつもりなのか。
非常に許しがたい。

これまで説明を続けてきた党の論法、その目的は議席の確保である。
女性のためと言いながら男女ペア立候補の義務を通そうとし、
女性のためと言いながら女性作家への影響も考えず、
女性のためと言いながら「社会的合意」が女性に及ぼす影響を考える余地もない。

古来より性的と言われ弾圧を受けてきたのは女性である。

性とはそもそも問題や偏りのあるテーマではない。誰しもが扱い、誰しもその表現を手にする自由がある。その表現にはこの文章も含まれる。
この文章のような擁護さえ、「排除すべき性的なものを守りたいだけ」といわれ権威的に否定されてきた歴史があるのだ。もこにはもう理屈すらない。そしてその公正さを捨てる正当化としても女性のためが掲げられるのである。

なぜ私が「女性が標的の迫害思想」と言ったのか。それは批判の反論から引き起こそうとする社会不安の正当化までを全て女性を盾にして提起されるものだからだ。党から個人まで、発言の論理的な不備に受けた批判に対しても「女性の被害を防ぎたくないのか」というレッテル貼りが行われる。
 苦しむ女性の具体的な解決ではなく「社会は性加害を肯定している」という理屈を広め、それを信じた女性を権力を得る活動に利用している。
こんな事は女性を見下していなければ絶対にできない。

ご覧のあなたがもし立候補をし票を得ようとした際に、性的被害を受けた女性に対して「社会は性加害を許している」などと言えるだろうか。
私なら断じて言えない。「社会の性加害を許さない人達の輪の中にいよう」と言うからだ。「社会はあなたに対する性加害を許している」などという理屈を信じ込んでしまった被害者の苦しみは更に計り知れないものだからである。
 なぜこのような事ができてしまうのか。それは女性を見下しているからだなのだ。もう無意識とも言える前提の段階で、個人ではなくまず女性と括って、そしてそのような理屈を信じ込ませる対象と判断してしまっている。

絵であれ服装であれ体型であれ、追い込めると思ったものを見つけては「性的だ」「女性を消費対象として見ている」などと言い掛かりを付ける。
「当事者は女性だ」「女性の表現者だ」と言っても言い掛かりをつけた方は絶対に意に介さない。それどころか「名誉男性」だとか「性的な目線に応えようとしている」などと更に決めつける。
 政策の発信者はご存じない事かもしれないが、頭部の殴打による処刑で今にも絶命しようとする女性も、スカートがめくれれば、叩きつけられる岩から頭を守っているその手でスカートを戻そうとするものなのだ。
恥の感情は時に痛みや命よりも優先され、同時に自死に何より近い。
そのような重い感情を引き起こすべく「性的だ」というレッテルをぶつける。死に近づく感情へと追い込み従わせようとする発想が、今浸透してきている。

現にVtuberの件でも明らかだ。
Vtuberだとか絵だとか、そういったカテゴライズで捉えて矮小化しては絶対にいけない話である。
 人が「性犯罪を助長する」と決めつけられ、警察との子供達の命を守る活動からの排除が成功してしまっているのだ。それが議員の仕事、全国規模の連帯を持って行われたのである。女性の社会参加を当たり前のものとしようとした人権運動を指す「フェミニズム」の言葉が、こういった思考の隠れ蓑として使われているのだ。
 こうした思想の被害者は、自身の身体性や表現に自信を失い、社会から排除され、レッテルは広められ続けその後の活動にも支障をきたす。この具体的な被害の事実も、迫害思想の前では取るに足らないものなのである。

「排除すべき性的」という名目で、広告や身体を用いた表現や非実在人物の絵にまで排除と上下関係の強要が及ぶ。
非実在人物も罪に含めよ、罪なき表現も罪とする社会にせよ、主張者の論理ではなく「社会的合意」で排除し合うようにせよ、等々。

そレは今回国政の政策として掲げられ事になってしまった。
この危惧に対し用いられる対抗策は「こいつは女性を性消費の対象としている」「性表現を守りたいだけ」「女性の被害を防ぎたくないのか」そのようなレッテルを貼り、主張を信じる人々が次々に非難をぶつけるというものである。あるいは、取るに足らない人間または主張だとして黙殺か。


私はあくまでも、主張、言説の論理性を問うものである。

民主主義において。 その言葉ですら語弊がある。
一人の人間として、今起きている事、実際に被害を被った方、これから引き起こされようとしている事、それらに対し向き合う以外にできない。

思想や論理の問題だとして言論をぶつけあうようなものと、捉える心の余裕をもう持ち合わせていない。政党とか主義だとか、そうした理屈以前の人の話、心、命の擁護の話だ。


以上である。ひとまずはここで留める。
被害も加害も少しでも防がれる事を祈る。

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