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青識某が起こした問題について

彼自身が自分のしていることに向き合うつもりが無い。
後付で正当化を繰り返し、その周囲も推測で彼の理屈のおかしさを補完しようとする。
これは混乱を助長させるばかりではなく、推測を根拠と大勢が錯覚する泥沼の状況を引き起こしつつある。

この深刻さが全く理解されないのは異様としか言えない。
以下に問題点を記す。


・「エンカレッジ・カルチャー」なる疑似科学を広めている

もうあれこれと解説しても通じないので簡単に書くが、
問題が生じた時に起きる応援の動きは個々の意志に基づいて起きるものである。よって、後に似た事柄が起きても同じような動きをその個人が取るとは限らない。個々が思いつくアイデアは自由の中で生まれるものだからである。
「エンカレッジ・カルチャー」なるものの証拠のようにそうした動きを扱っているが、検証をしたわけでもなく検証の範囲を示して正当性客観性の判断を皆に委ねたわけではない。
疑似科学である。悪質なデマの類である。
人は理屈の範疇で行動しているわけではない。非科学的なレッテルで苦しむ人を助けるために非科学的な理屈の範囲で動けというそれは同類のものである。
現に検証すらしていない事に疑問も持たない者が次々に現れ始めている。
人は賛同を示したものを後から撤回するのは困難である。
そして検証すら必要がないという観念の者は、科学的な客観性と人権理念を理解することも同じく困難である。


・事態の正確な分析や理解への議論を困難にしている

彼は自説の補強のために後付の理屈と詭弁をばら撒いている。

例えば、実在の店舗で撮影した画像を使い非難への抗議に使うことと、
非難を受けているコンテンツの画像を使い非難への抗議に使うことを、
彼は見聞きする人が混乱するよう意図的に応答中にすり替えている。
疑似科学である「エンカレッジ・カルチャー」の正当化のために非論理さを優先するのである。

これにより、コンテンツを否定的な印象で広めない、批判の文言を載せた画像を作らないなどの具体的なコンテンツを扱う上での常識さの話ではなく、
問題の解釈や感想の押し付け合いこそ正しいと思い込む者を量産し続けている。
具体的な事物をいかに扱うかという話よりも、理屈を信じるかどうかという「人の区分」のために、他者が「この理屈を認めるか否か」というカテゴライズの押し付けが有力なものであるという錯覚を意図的に引き起こしているのである。

これは魔女狩りで行われた疑似科学を根拠とする裁判やフェミニズムの発祥となった人権運動を「暴力的であった」「男並を求めた」等の改鋳などと論理構造は同じである。
彼にとっては「エンカレッジ・カルチャー」が疑似科学であることを悟られないことの方が、人々が検証や個々の意志判断の自由を重んじるよりも大切なのである。


・混乱のきっかけと全容を人々が把握することが困難になる

例えば彼の疑似科学とそれを重んじてばら撒かれる詭弁が、更に拡散力の強い人に「正当だ」として広められたとしよう。
その時にいくら「検証されていない」「個々の意志判断がこんな理屈でカテゴライズ可能なわけがない」「具体性と常識的な切り分けを」と言ったところで引き起こされる混乱を収拾することなど困難である。
それこそ彼は待ち望んでいる。詭弁を意図的に繰り返していることから、その評価は免れないだろう。

外道下劣の振る舞いである。

(明日から明後日にかけて更にいくつか根拠を追記していく)


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