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再ロックダウン5日目(リサちゃんのこと)

家から出ないとなると、部屋の模様替えやら、断捨離もどきをしている。

書類の束。

事務的な書類は直ぐに処理するほうなので、それ以外のカテゴリー分けしにくいものがここ1年くらい山積みになっている。いよいよ手をつける日が来た。自分のコンサートのパンフレットやプログラム、そしてお手紙の数々。

簡単に処分できるもんじゃない。出来ることなら死ぬまですべて大事にとっておきたい。さらに言うなら、絶対捨てたくない。ダブっているものだけ、とりあえず今回処分することにした。

でも、お手紙はやっかいだ。

すべてに目を通して、その時を思い出してしまう。有難い気持ちしか湧いてこない。殊に、手書きのお手紙はどんな短い文章でも、その時の温度が蘇ってくるようで、これほど貴重なものはないと再認識する。メッセージやメール、挙げ句には絵文字やスタンプだけで会話する時代に、手書きのお手紙は本当に価値のあるものになってきた。

一通、8月中旬にいただいた一筆箋の手紙があった。

いただいたお手紙の中でも新しいほうだ。これをくれた本人は、もう私と同じ世界にはいない。近くにいるだろうけど、存在はもう見えない。最後に会ったのは8/29だったと思う。彼女が旅立ったのは10/17だ。私がボーッとしてる間に、あちら側に行ってしまった。18歳になった翌日に彼女は旅立った。

最初に出会った時から、彼女が重い病を患っていることは知っていたのだけど、会っているときはそんなことは微塵も感じさせないほど、好奇心と希望と将来の不安でいっぱいの普通のJKだった。むしろ少し子供っぽくて素朴なくらいかな、お化粧に興味が湧かなくて困ってると言ってたっけ。今度一緒に探しに行こうか、なんて話してた。可憐な子だった。

彼女がうちに来るようになったのは去年の夏頃。音大附属で声楽を勉強している。私なんかよりずっと早くから専門教育を身につけてさせてもらっていて、非常に恵まれた環境にあったと思う。義兄の紹介で私のコンサートに足を運んだのがきっかけで、私がパリから戻る度にレッスンに来ていた。とても真面目で熱心で、すでに海外で演奏した経験もあって、若いながらも立派な声を持って、なにより素晴らしい音楽性があった。ちょっと悔しいくらい恵まれていた。こちらが病気のことを忘れてしまうほどなんだから。

今年に入って、レッスンの予定が体調不良でキャンセルになったり、会った時にちょっとした体調の変化を伝えてくれてはいたのだけど、側から見る限りというか、彼女の態度を見る限り、むしろ病状は回復に向かってるのかなと思っていた。多少のハンディキャップは残るかもしれないけど、これから彼女がどうやって自立して音楽をやっていくのか、相談に乗るべきことがあれば、私なんかでも協力できればと思っていた。実際、彼女がレッスンに来ると相談で時間が過ぎてしまうので、別の時間を作ってお茶しようという話になり、後日会うことにした。

待ち合わせ時間になっても彼女は来ない。喫茶店を間違えたかと思って連絡しても繋がらない。1時間ほど待って、その後の予定があったので帰ったのだが、何か急な体調の変化があったんじゃないかと心配になった。ずっと祈った。その日の夜中にメッセージが入って、日程を間違えていたと連絡があった。すごく申し訳なさそうだったけど、そんなことより彼女が無事で良かったとホッとした。

数日後にお中元のようなお詫びの詰め合わせが彼女のお母様から届き、この中に彼女の一筆箋のお手紙が入っていた。ご両親に叱られたらしい。なんだか申し訳ないことをした。私はそんな気にしてなかったし、まあそんなことも経験しながら人間って育っていくものだから、これもすべてタイミングだし、しょうがないから気にしないで良いよ、と返しておいたのだが、待ち合わせのときに心配で私が何回もメッセージ入れてしまったせいで、それに気づいた時にきっと罪悪感を持ってしまったんだろう。高価な詰め合わせまでいただいてしまって、なんだかこちらが気を揉んでしまった。

御礼とともに、近日中に会い直しましょう、と連絡をした。翌週の日曜はどう?と予定を軽く決めた。

前日に天気が良くて、朝から結構な距離を自転車で走って仕事に向かった。すべての予定を済ませ、まだ午後3時。汗だくだったけどこのまま彼女のところへ行ってしまうのもありかと思って、彼女に連絡して(今度はちゃんと連絡が取れた)、その後すぐに会うことにした。会えるのが嬉しかった。

喫茶店に先に入っていた彼女の背中は、いつもレッスンで見るよりもずっと小さく細くて、風に吹かれたら飛んでいってしまいそうな程だった。今日は色々ご馳走してあげなきゃと、ケーキと飲み物とを注文して一緒に食べた。そういえば、7月のレッスンの時かな、病気のせいで臭覚が無くなってしまったと言っていた(コロナとは関係ない病気です)。そんななのに、ケーキを美味しそうに食べてくれていた。なんだか嬉しかった。

たくさん話を聞いてあげた。たくさん相談に乗った。彼女の好奇心に押されて、私も色々なことを話した。彼女の病気のことも、初めて詳しく聞いた。病気の不安もあったのだろうが、それよりも早く自立して、一流の歌手になりたいという希望に溢れていた。その一方で、彼女は17歳にしてすでに、人に貢献したい、恩返ししたい気持ちを持ち備えていた。子供の頃からお世話になった病院の子供達やスタッフ、先生方に音楽を通して恩返しをしたいらしかった。音楽療法にも興味を持っていた。立派だと思った。

自分が17歳のとき、そう、ちょうど彼女の歳の頃に私は歌を始めた。

私は彼女みたいな立派な希望は無かった。極めて利己的、エゴな夢しかなかった。オペラ歌手になってみたい。誰かの役に立つなんて気持ちは持ったこともなかったと思う。まして、音楽で人の役に立てるかなんて、未だにきちんと見つけられていなくて、自分の不甲斐なさに情けなくなるほどだ。

彼女の相談を聞きながら、もし彼女がそういうNPO的なものを作りたいなら、私に出来ることであれば協力したいと思った。42にして、ようやく17歳の少女の夢を借りて、私が音楽を通して貢献できることは何か真剣に考えるようになった。

その矢先だった。

自分のレコーディング初日の朝、彼女のお母様からメッセージが入った。体調の変化があり、急を要するような文面だった。2日間のレコーディングの間、とにかく祈り続けた。彼女は歌い続けたいのだから、なんとか自分が彼女の口になってあげられないのか、そんな気持ちにまでなった。


それから1ヶ月後、彼女は旅立った。18歳を迎えた翌日のことだった。


私はすぐに駆けつけられず、お別れには立ち会えなかったけれど、数日の間、悔しさと感謝でずっと泣いていた。ご家族を思うと本当に辛いし悔しい気持ちになるけれど、彼女が人に与えた影響は短い人生なのに凄く大きかったんじゃないかと。少なくとも、私は彼女に出会えたことで、生きる上で大事なことを教えられ、最後まで希望を持って駆け抜けていったのを見て、改心できた。感謝しながら、今も涙が溢れてくる。

人との出会いは、偉いとか年齢とかでもなく、真剣に生きる人は何か大事なことを教えてくれる。

この世で彼女に出会えて本当に良かった。ありがとう。


いただいた一筆箋のお手紙は

一生大事にとっておくことにする。


11月は死者を思う月。


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