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冬の心(その2)——シテ島のアトリエ。

 私たちの工房アトリエはシテ島のなかにある。観光客はノートル・ダムに気を取られているから、こんなところにヴァイオリン工房があるとは永遠に気づかないだろう。建物はかなり古い。ここはパリでも指折りの伝統ある工房で、マクシムが父親から譲り受けたものだ。当初、私は彼の父に職人として雇われたが、彼の代になって共同経営者になった。

 今、パリの街はオリンピックで湧き上がっている。でも、これまでの盛り上がり方とは様子が違う。なぜなら、パリの街そのものが競技会場と化しているから。選手たちが船に乗ってセーヌを降る前代未聞の開会式もさることながら、一部の競技はセーヌ川とその周辺のオープンスペースで繰り広げられることになっている。
 百年ぶりのオリンピック開催ということもあって、世界各国から観光客も押し寄せている。開会式を狙った鉄道襲撃事件も起こり、治安当局はさぞピリピリしていることだろう。
 でも、テレビに映し出されるそういった晴れやかな、賑やかな、そしてはしゃぎたつ顔、光景よりも、脳裏に深く刻み込まれているのは、静かなパリ、何があっても淡々と日常を繰り返すパリである。早朝から常連客が列をなすパン屋、テラスでコーヒーを飲みながら新聞を読む老人の姿、リュクサンブール公園をランニングする中高年の男女、そんな細かなディテールばかりが蘇ってくる。

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