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教育の目的と目標の構造を問い直せ!一「分析」思考から情動的「直観」は育たない一
●小林秀雄「美を求める心」と感性
私が「感性」について考えるようになったきっかけは、小林秀雄の「美を求める心」と題する一文を読んだことにあった。
<例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でおしゃべりをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るということは難しいことです。
菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。>
道徳教育では「生命に対する畏敬の念」を育むことが大切だが、これは「考え議論する道徳」や「アクティブ・ラーニング」の導入によって、子供の心の中に育つものではない。論理的思考によって「菫の花」だと「頭で解れ」ば、心の眼を閉じてしまって瑞々しい感性は働かなくなり、「もう花の形も色も見るのを止める」のである。
これまでの道徳教育は、「読み物教材の登場人物の心情理解」に偏り、分かりきったことを言わせたり書かせたりする指導に終始してきたために、現実のいじめ問題の解決には全くつながらなかった。
友情の大切さを述べて教師を感動させる文章を書いた子供が、実はクラスのいじめっ子の中心人物だったという現実が物語っているように、教師は学習者の立派な文章や発言に目を奪われて、学習者の感性や認識の深さや本音を頭ではなく心で実感する眼を失っているのではないか?
●分析から直観へ達する方法はない
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