貝塚茂樹『吉田満一身を捨つる程の祖国はありや一』の含蓄深い問題提起⑴

●「戦没学徒の遺産」
 昨日の歴史認識問題研究会で『吉田満一身を捨つる程の祖国はありや一』の著者である武蔵野大学の貝塚茂樹教授が「吉田満と戦中派世代」と題して、含蓄深い研究発表をされた。貝塚教授が大学生の時に初めて接した吉田満の文章は、NHK取材班『21世紀は警告する 祖国喪失 国家が”破産”するとき』(日本放送出版会、1984)に掲載されていた「戦没学徒の遺産」の次の1節であった。

<私はいまでも、ときおり奇妙な幻覚にとらわれることがある。それは、彼ら戦没学徒の亡霊が、戦後24年を経た日本の上を、いま繁栄の頂点にある日本の街を、さ迷い歩いている光景である。(中略)彼らが身を以て守ろうとした、”いじらしい子供たち”は今どのように成人したのか。日本の”清らかさ、高さ、尊さ、美しさ”は、戦後の世界にどのように花を咲かせたのか。それを見届けなければ、彼らは死んでも死にきれないはずである。(中略)彼らの亡霊は、今何を見るか、商店の店先で、学校で、家庭で、国会で、新聞のトップ記事に、何を見出すだろうか。

●『戦艦大和ノ最期』の検閲
 吉田満「戦艦大和ノ最期」の検閲文書は、私が30歳の時に大学院に留学していた米メリーランド州立大学のマッケルディン図書館のプランゲ文庫に所蔵されており、半年近く私自身も同文庫の資料整理・研究に没頭した。留学前から交流があり、留学後も文通して占領文書の情報交換をしていた作家の江藤淳氏が同検閲文書を発見し、マッカーサー記念館で開催された日本占領シンポジウムで「私は護国の英霊に導かれた」と誇らしげに発表された姿は今でも鮮烈に目に焼き付けられている。
 吉田は「占領下の『大和』」『戦艦大和』において、次のように述べている。

<死にゆく者が、いかに絶対の特攻攻撃ではあっても、ただ諦めと自嘲のうちに、単に否定的消極的に斃れるというのは、自然に反する。そこには何かがある。少なくとも生命の最後の燃焼があり、生き残った日本人を刺戟する昂ぶりがある。死者の肚の底の声がある。それは、戦争肯定とか愛国というものをはるかに超えてはいるが、異様に悲痛な叫びを持っている。おそらく占領行政には、とんだ厄介物だったのだろう。>

 『創元』第一輯に掲載予定であった「戦艦大和ノ最期」を全文削除処分にした占領軍参謀第二部(G-2)に抗議した白洲次郎に働きかけたのは、吉田満を「ダイヤモンドみたいな眼をした男」と絶賛した作家の小林秀雄であった。上智大学のヨゼフ・ロゲンドロフ神父の尽力を得て1952年に創文社から『戦艦大和の最期』が公刊され、吉川英治、小林秀雄、林房雄、三島由紀夫、川上徹太郎による「跋文」が付された。
 貝塚によれば、吉田は、「戦争を一途に嫌悪し、心の中にこれを否定し尽くそうとする者と、戦争に反発しつつも、生涯の最後の体験である戦闘の中に、些かなりとも意義を見出して死のうと心を砕く者と、この両者に、その苦しみの純度において、根本的な違いがあるであろうか」と疑問を投げかける。
 そして、後者が戦争肯定と非難されるとすれば、「我々はどのように振舞うべきであったのかを、教えていただきたい」と続ける。そして、「我々は一人残らず召集を忌避して死刑に処せられるべきであったのか。或いは、極めて怠惰で、無為な兵士となり、自己の責任を放擲すべきだったのか」と述べながら、再び続ける。
 「戦争を否定するということは、現実に、どのような行為を意味するのかを教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然すぎて無意味である。誰が、この作品に描かれたような成果を、愛好し得よう。」

●うしろめたさと「戦争責任」
 貝塚によれば、吉田は「うしろめたさと『戦争責任』」について、次のように述べている。

<戦闘場面が、あらゆる角度、あらゆる写法で、いくこまもいくこまも、繰り広げられる。いる。いる。戦友たちが、いずれも無言。こちらの眸の中を見据えるように、どこか不安定な姿勢で、立ちつくしている。かれらの眉は、悲しげな憤りで、濡れている。唇が、黒く、固い。どうこたえたらいいのだろう。その眼を、どうみつめ返してやるべきなのだろう。近寄って、肩を抱き、どんな力で、ゆすってやったらいいのだろう。分からない。ただ自分たちが、どこか軌道をはずれた、狂暴に吹き迷う突風に捲きこまれ、そのなかで盲目にもがいていたのだという悔いが、めざめてくる。(「終わりなき貫徹」)

 辛くして我が生き得しは彼らより 狡猾なりし故にあらじか(岡野弘家)

 敗戦によって覚醒した筈の我々は、十分自己批判しなければならないが、それ程忽ちに我々は賢くなったのであろうか。我々が戦ったということはどういうことだったのか、我々が敗れたというのはどういうことだったのか、を真実の深さまで悟り得ているか(「占領下の大和」)

 少なくとも私は、そうではない。私は考える。先ず、自分が自分に与えられた立場で戦争に協力したということが、どのような意味を持っていたのかを、明らかにしなければならない。私の協力のすべてが否定されるのか、またどの部分が容認され、どの部分が否定されるのかをつき止めて見なければならない。そうでなくて、日本人としての新生のいとぐちを、どこに見出し得よう一先ず率直な自己展開を自らに課した所以である。

 無力な一国民にとって、戦争を憎悪することと徴兵を拒否することの間には、越え難い大きなミゾがあったのではないか。

 みずからに召集令状がまいこむような段階では、徴兵拒否は最も戦争否定の手段であるが、これをもって組織的な戦争非協力のキメ手とすることは、空論に過ぎない。

 徴兵拒否という反戦行為の可能性を認めるとしても、それを万人に求めることは非現実的であり、国家の存在を認める限り、「その基本的な要請に国民がこたえることは、古今東西を通ず公理」である。

 そのような召集拒否だけで、戦争否定が可能となるほど”戦争”は生やさしい敵ではなく、過去のわれわれの戦争協力だけを責めて足れりとする立場からは、また同じ過ちのくり返しが生まれるだけではないか。ダマされたといってただ他を恨みみずからを省みないものは、また必ずダマされるだろう。

 私の場合でいえば、戦争か平和かという無数の可能性がつみ重ねながら一歩一歩深みに落ちていった過程を通じて、まず何よりも政治への恐るべき無関心に毒されていたことを指摘しなければならない。また国家と国民の関係について、国家の意志のあり方について、自分の問題として具体的に取組んだことはほとんどなかったといっていいだろう。(中略)このような基本的な戦争協力責任、戦争否定への不作為の責任を改めて確認することが、敗戦によって国民が真に目覚めるということであるにちがいない。

 政治の動向、世論の方向に無関心のあまりその破局への道を全く無為に見のがしてきたことにある。
 
 

 


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